(執筆:田久保 善彦)
「考えが古い、そんなんじゃやっていけないぞ」
「いまだにそんなこと言ってるのか」
「もうそんな時代じゃない」
見た目や国籍、性や家族のあり方、働き方などが多様化した結果、「その考えは古くてもう通用しないから価値観をアップデートをしろ」という主張が大正義になっている。
わたしだって、「令和の時代にそんなこと言う人いる!?」と驚くことは何度もあった。
が、それはあくまで自分の価値観が最新だと思っているからこそ言えること。
いざ古い価値観側の立場に立ってみると、「価値観のアップデートって言うほどかんたんじゃないな」と痛感した。
わたしはアイドル全般が好きなライトファンで、少し前元ハロプロの笠原桃奈ちゃんが『PRODUCE 101 JAPAN THE GIRLS』というオーディション番組に参加すると掲示板が盛り上がった。
せっかくだから見てみるか、と初めてオーディション番組を視聴。
そこには自分の知らない世界が広がっていて、心底驚いた。
課題曲にはK-POPがたくさん選ばれていて、参加している練習生のなかにも韓国語を話せる子がたくさんいたのだ。日本のオーディションで、みんな日本人なのに!
そしてある日YouTubeで突然、MISAMOという3人組のショート動画が流れてきた。
すごくダンスうまいし、歌声もキレイだし、なによりビジュアルが最強すぎる! だれだこれ!
どうやらK-POPグループのTWICEに在籍する、日本人メンバー3人の派生グループらしい。
K-POPに興味がないわたしでも、TWICEの名前くらいは知っている。K-POPグループなのに日本人もいたんだ、知らなかった。
その後、『Nizi Project Season 2』という、TWICEが所属しているJYPエンターテイメントとソニーの合同オーディション企画もチラ見。
オーディション会場には数えきれないほど多くの日本人応募者が集まっており、なかには10代から韓国に渡って「K-POPアイドル」としてデビューするために日々研鑽している、JYP事務所の「日本人」練習生の姿も……。
ちなみに同企画のシーズン1でデビューした『NiziU』は、4年連続紅白に出場するほど大人気。
このオーディションも基本すべて日本語で行われ、メンバー9人中8人が日本国籍である。K-POPアイドルだからみんな韓国の子だと思ってたけど、実は日本人ばっかりなんだよ……!
『BOYS PLANET』というオーディション番組では、日本や中国、ベトナム、カナダなどから参加者が集まり、みんな流ちょうな韓国語で意思疎通し、堂々とパフォーマンスしていた。英語が母語であるメンバーでさえ、K-POPアイドルになるために韓国語を学んで来ているのだ。
わたしが大学生の頃のK-POPって、失礼だけどミーハーな子がハマる一過性のブームってイメージだったんだけど……いつの間にこんな世界規模のカルチャーになっていたんだ!?
日本のアイドルとK-POPアイドルはまったくちがうジャンルでどちらにも魅力があるから、優劣をつけるつもりは一切ない。
ただわたしはずっと、「アイドルといえば日本」「アイドルを含めたサブカル文化は日本が発信源」だと思っていた。東京オリンピックが決まってからはとくに、そういう話題もよく出ていたし。
だから、K-POPグループが「世界的アイドル」として人気を博しているうえ、K-POPアイドルになるためにたくさんの日本人が韓国に渡っているのを知って、ただただ驚いたのだ。
だって、日本のアイドルになるために、日本語を勉強した外国人たちが何千人も日本に集まっているところなんて、見たことがないもの(AKB系グループは海外にもあるけど、あくまで拠点は現地であって日本ではない)。
でも韓国では、当たり前のように集まる。そんなの、まったく知らなかった。
で、思ったわけだ。
「価値観のアップデート」って、具体的にどのタイミングでどうやってすべきなんだろう?と。
偶然『日プ』を見なかったら、わたしはいまでも「アイドルは日本の文化であり、ほかの国には日本を真似たようなグループがいくつかあるだけ」だと思っていただろう。
ソフトウェアみたいに、「お客様がご利用中のバージョンは古いものです。アップデートしますか?」なんて誰も確認してくれはしない。
更新のお知らせが来なければ、「自分の価値観が最新バージョンだ」と思い続けてしまうのも当然だ。
だから「価値観のアップデートをしろ!」って、言うのはかんたんだけどやるのは結構むずかしい気がするのだ。
話は変わるが、キャスターの柴田阿弥さんがABEMA Primeで、「田舎の人は親切でおおらかという幻想をとっとと捨てるべき。男尊女卑の傾向が強い。人権意識は東京のほうが進んでいる」とコメントした。
このショート動画には多くの「田舎のしんどさ」に対する共感が集まっている。
これはまさしく、多様性に適応していない田舎の「古い考え」を糾弾している例だ。
ではその古い価値観を持った田舎の人たちに価値観のアップデートを迫ったところで、その人たちは考え方を変えるんだろうか。
「あなたの価値観は2000年バージョンですね。型遅れだから更新してください」と言って、「はいわかりました」となるだろうか。すぐに最新版に対応できるだろうか。
きっと、「いまのバージョンで問題なく動くし、まわりもみんなこれ使ってるから大丈夫。最新スペックほしい人だけが更新すれば?」と思うだろう。
わたしだって、「K-POPグループは多国籍が当たり前でメンバーは言語の勉強をしているし、いろんな国で活躍してるんだよ! アイドル=日本ではないよ!」と言われても、少し前なら「あなたがK-POPを好きなのはわかったけど、アイドル文化は日本のものだし、サブカルとして国もアピールしていたくらいなんだから」と反論していたにちがいない。
考えてみれば当然で、いつものように価値観ver.2000で作業しているなか、突然ver.2024にしろと強制されたら、だれだって「はぁ?」となるだろう。
だって古いソフトも、本人の認識では「問題なく動いている」のだから。
とはいえ、アイドルの話であれば価値観ver.2000でも他人に迷惑をかけることはないが、働き方やセクシュアリティ、見た目に関する価値観となると、そうもいってられない。
どこかの田舎でいまだに価値観ver.2000による男尊女卑が続いていて、それによって苦しむ人がいるのであれば、それは変わるべきだ。
でも「その考えは古いから早くアプデしろ!」と言っても、なかなかうまくはいかないだろう。
わたしだって、PCのアプデ通知が何度も来ているのに、「面倒だから」「必要ないから」と無視し続けることがたくさんあるもの。
自分には関係がない、いままでどおりで問題ない、と思っている限り、考えを変えることはない。
ではそういう人たちは、どうしたら価値観をアプデするのか。
一番簡単なのは、数の暴力だ。
たとえば、「男なのに育児休暇? ふざけるな、そんなの認めないぞ。左遷されたいのか」なんて言い出すパワハラ上司がいたとする。
でもまわりが、「えっ自分も取る気だったんですけど」「わたしの夫、〇〇会社で取得してくれましたよ」「説明会でも男性の育児休暇推奨って言ってるはずだし」「人事に直接相談したら絶対OKでるよ~」というリアクションだったらどうだろう。
上司は明らかに居心地が悪く、自分が浮いていることに気付くはずだ。
そうすれば、「ムカつくけど認めるしかないか……」となるんじゃないだろうか。
結局、まわりが価値観ver.2000を認めて受け入れてしまうから、その人は「このバージョンでも問題なく動くからアプデする必要はない」と思ってしまうのだ。
だから、「全然ちゃんと動いてないっすよ! 問題大あり!」というのを、まわりの反応から気付いてもらえばいい。
数で圧力をかける考えはあまり好きではないのだが、「お前の考えは古い!」より、「最新バージョンのほうが快適に動きますよ~、まわりもみんな最新バージョンですよ~」と誘いこむほうが、現実的だと思う。
とはいえこれは理想論であって、「みんな価値観がver.2000の田舎」であれば、まわりの協力を必要とするこの方法は使えない。「ここは最新バージョンに対応していません」で終わってしまうから。
そういう場合はもう、そのコミュニティから脱出するしかない。
若者を呼ぶためにさまざまな施策をして成果を挙げている地域がある一方、とんでもない条件で地域おこし協力隊を募って炎上したり、移住した若者がその実体をブログに綴って批判されたりする地域もある。
サービス終了した古いバージョンを使い続けるかどうか、最終的に判断するのは結局その人本人だ。
まぁなにが言いたいかというと、「お前の考えは古い」と頭ごなしに否定してイマドキの価値観を押し付けても、「今までのやり方で問題ない」と突っぱねられるだけであんまり意味はないよな、ということだ。
時代の変化に本気で気付いていない人や、いままでのやり方でうまくいったから変わる必要がないと思っている人はたくさんいる。
そういう人に対し、世間の風は冷たい。
「古い考えに固執している頑固者」「時代の流れを理解できないバカ」のように。
でもある日突然、いままで使い続けていたソフトを否定され、「まだそんなの使ってんのかよ」「ありえねぇ」なんて言われて、さらに「古いソフトを使うなんてハラスメントです」と言われることを想像すると、結構きついよなーと思う。
だから
・まわりに協力してもらえるなら数を味方につけて、新しい価値観に適応したほうが得な環境にする
・最新バージョンに対応していない環境なら、そのコミュニティから出る。その後どうするかはその人次第
が現実的なところかな、と思う。
余談だけど、10年ちょっと前HKT48としてきゃぴきゃぴ踊ってた宮脇咲良ちゃんがいつのまにか韓国に渡り、いまや大人気LE SSERAFIMの最年長として大活躍してるのを知って、めちゃくちゃ感動した。すごい努力したんだなぁ……。
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【著者プロフィール】
名前:雨宮紫苑
91年生まれ、ドイツ在住のフリーライター。小説執筆&
ハロプロとアニメが好きだけど、
著書:『日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち』(新潮新書)
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ブログ:『雨宮の迷走ニュース』
Twitter:amamiya9901
Photo:techjunkie452
「CIAOちゅ~る」で知られるいなば食品の“採用不祥事”が、まだまだSNSを騒がせている。
給与の額が説明と違った、前近代的な社員寮に入居を指示された、といった新卒社員たちの訴えに端を発した大騒動だ。
報道が全て事実なのか、正直よくわからない。
しかし事実と受け止め、非道な経営者の振る舞いに怒りを感じた人が多かったのだろう。
次々と報じられる続報に、この話題が過去のものになるのはまだまだ先のことになりそうだ。
しかし敢えて言うが、“この程度”の経営者の振る舞い、それほど珍しいものだろうか。
これ以上に理不尽な経営者やリーダーの下で仕事をし、毎朝吐きながら職場に向かっているビジネスパーソンは、日本中に溢れかえっているだろう。
言い換えれば、報じられているような同社の振る舞いは、日本企業の経営者や管理職にとって全く珍しくないモラルのレベルということだ。
ではなぜ日本の経営者、とりわけ中小企業の経営者やリーダーには、こういったタイプが多いのだろうか。
長年疑問だったのだが、最近ようやく、その答えらしきものがわかった気がしている。
話は変わるが、「和を以て貴しとなす」と聞けば、小学校の歴史の授業を思い出す人も多いのではないだろうか。
聖徳太子(厩戸王)が定めたとされる17条憲法第1条に記されている、調和を重んじること、仲良くすること、よく話し合うこと、というような意味が込められている条文だ。
「広く会議を興し万機公論に決すべし」
明治元年、明治天皇が宣言された五箇条の御誓文の第一条でも、やはり何よりも最初に、同じ意味合いの条文が置かれている。古来から、日本という国がどのような価値観で運営されてきたのか、うかがい知ることができる故事の2コマだ。
そして歴史上、そんな価値観が具体的に機能した庶民の知恵に、無尽(講)というものがあった。
頼母子(講)と呼ばれることもあるが、ご近所さんや親族、あるいは仲間内で助け合うことを目的にして運営された、マイクロファイナンスの一種である。
その歴史は古く、発祥は鎌倉時代にまで遡る。
以下少し、この組織の概要を簡単に説明したい。
地域により時代により様々な形があるが、その目的とするところを現代風に表現すると、ざっとこんな感じだ。
Aさんは最新のiPhoneを購入したいが、20万円貯金しようと思ったら毎月2万円ずつ、10ヶ月もかかってしまう。
そこで新型iPhoneが欲しい仲間を10人集め、毎月皆で2万円ずつ、合計20万円を集める「iPhone無尽」を組織する。そしてくじびきなどで、今月は誰がその20万円を受け取ってiPhoneを買うのかを決める。
この集まりと出資を、毎月繰り返す。もちろん、一度当選した人はもう当選する権利はない。
こうすれば、10人のうち9人までは、自分が貯金をするよりも早く最新のiPhoneを手に入れることができるという仕組みだ。
損する人は誰もおらず、メンバーの9割が“得をする”ので、高確率でハッピーになれる。
何らかの商品を買うことを目的としない、地域の皆でリスクに備える無尽もあった。
例えば町内会50世帯で毎月1万円ずつ、積み立て続けるような感じだ。
1年も経てば600万円とかなりまとまった金額になるが、こうして出来上がった資金はコミュニティ内で不幸があった人、職を失った人、借金で生活苦に陥った人などが出てきた場合に、期間中1回だけ融資される。
融資を受けた家は利息をつけて元金を返すこともあったようだが、いわばお互いのリスクに備える保険のようなものとして機能したということだ。
しかしお気づきだと思うが、この仕組み。とても便利で魅力的に思われるかも知れないが、大きな問題点がある。
まずは何よりも、この無尽を組織するときの世話人を、信用できるかどうかだ。
信用できない世話人にまとまったお金を預けようものなら、ある程度資金が貯まったところで逃げられるなど最悪である。
構成員のモラルも、もちろん求められる。
例えば「iPhone無尽」の場合、最初の月に当選した人は次の月から出資金を支払うのがバカバカしいと思うかも知れない。
実際に無尽は、戦前まで幅広く普及し、中には営利を目的とした会社も生まれるのだが、やはり掛け金の支払いを怠る者が現れ、また経営者がずさんな管理をするなどのトラブルが相次いだ。
そのため国は、大正4年(1915年)に無尽を規制する法律、「無尽業法」を制定する。
さらに昭和16年(1941年)には免許制に移行して、取り締まりを強化した。このようにして、無尽という庶民のささやかな互助組織は、歴史から急速に姿を消していくことになる。
日本には今も間違いなく、「和を以て貴しとなす」という、調和を重んじる文化がある。
しかしこういった“信用と信頼”を基礎にした社会や組織は、「やったモン勝ち」の人が悪意を持って入り込むと、ものすごく脆い。
そして無尽がそうであったように、少数のアンモラルな人の身勝手で、本来良い仕組みや考え方であったものも、法律で規制せざるを得なくなってしまう。
「やったモン勝ち」というアンモラルと、「和を以て貴しとなす」の社会は、あまりにも相性が悪い。
そして今、それが限界を迎えようとしている。
話は冒頭の、いなば食品についてだ。
個別の話の真偽はともかく、なぜ中小企業にはこのような経営者やリーダーが多いのか。
日本社会には、”過失”で誰かに迷惑をかけても、迷惑分を埋め合わせたら許される原則がある。
例えば交通事故だ。
交通事故の被害者には通常、車の修理代やケガの治療費は認められるが、事故車になったことによる評価損、通院にかかる時間の補償などを受けるのは相当難しい。
私自身、0:10で一方的にぶつけられる事故に2回巻き込まれケガをしたことがあるが、いずれも車の修理代と治療の実費だけが補償の対象であった。車の評価損も通院にかかる時間コストも完全にやられ損であり、被害者だけが損をするルールである。
「交通事故と、悪意のある犯罪は違う」
そう考える人もいるだろうか。
しかしこれがまさに、日本の経営者やリーダーに、「やったモン勝ち」で得をする仕組みを与えてしまっている。
内定時よりも大幅に低い初任給しか支給しなくても、「過失」や「手違い」と謝罪をすれば、刑事罰に問われることすらない。
被害者側が相手の悪意を証明できない限り、「やったモン勝ち」になるのである。だからこそ、こういうことを平気でやらかせる人は丸儲けになる。
そしてこのような経営者はその時、こんなことを考えている。
「どうせ新卒カードを失うことも怖いだろうし、辞めるわけがない。訴える知恵もお金もないのだから、リスクすらない」
まして、経営トップに絶大な権力が集中している中小企業経営者など、このような連中がいくらでも湧いてくるのは、想像に易いだろう。いくらでもコストカットできるうえに、リスクがないのだから、当然である。
「そんな会社や経営者は、民事で訴えたら良いのでは?」
そう考える人もいるだろうが、米英のように「懲罰的損害賠償」を認めない日本ではいくら訴えても、まともなお金などとても取り返せない。当然、経営者も会社も全く痛まない。
膨大な時間とお金を費やして勝ったとしても、交通事故がそうであるように「実損害分」しか、取り戻せないからだ。
このようにして、立場の弱い従業員に理不尽を押し付けるロクデナシ経営者が生まれ、産地偽装をしてでも金儲けをするクズ経営者が次々に湧いてくることになる。
「和を以て貴しとなす」の下で生まれた無尽(講)や頼母子(講)が歴史から姿を消した背景には、「信頼を平気で裏切る身勝手な連中」の存在がある。
であれば、私たちは
「従業員の信頼を平気で裏切る経営者」
「信頼を裏切ってもなんら罰せられず、むしろ得をする社会」
のルールや仕組みをこそ、見直す必要がないだろうか。
雇用条件を遵守しない会社、セクハラやパワハラを許容する会社などは、経営者個人に強烈で震え上がるような、懲罰的損害賠償を認めるルールである。
「やったモン勝ち資本主義」が蔓延している日本の競争環境や経営者など、世界に通用するわけがない。是正しない限り、働くことがストレスになる人たちを減らすことなど、とてもできないのではないか。
決して言い過ぎだと思わないのだが、いかがだろうか。
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【プロフィール】
桃野泰徳
大学卒業後、大和證券に勤務。
中堅メーカーなどでCFOを歴任し独立。
主な著書
『なぜこんな人が上司なのか』(新潮新書)
『自衛隊の最高幹部はどのように選ばれるのか』(週刊東洋経済)
など
「どうせ美味しいわけがない」と思って、冷凍クロワッサン、買ったこと無かったんです。しかしふと思いつきで買ってみたら、ものすごく美味しくて驚きました。
冷凍技術、どこまで進歩するのよ…
X(旧Twitter) :@ momod1997
facebook :桃野泰徳
かれこれ10年以上も前のことだ。ある精神科医にこんなことを言われた。
「もう弟さんを手放したらいかがですか。もっとも彼の場合、お姉さんに突き放されたら、本当に死んじゃうかもしれませんけど」
弟は重度のアルコール依存症だった。
それだけでなく、双極性障害も患い、睡眠導入剤の薬物依存にも陥っていた。典型的な「重複障害」だ。
時期によってこの3つのうちのどれかが落ち着くこともあったが、そうすると他のどちらか、あるいは両方が悪化するという具合で、どちらにしても苦しい状況から逃れようがない。
さらにゲイであることに起因する問題にも長年傷つき苦しんでいたが、それはひた隠しにしていたので、私がそのことを知ったのはずいぶん後になってからだ。
アルコール依存症、双極性障害、薬物依存、そしてゲイであることは、私にとって恥ずかしいことではまったくない。
だが弟はずっとそういう自分を恥じていて、自己否定感が強く、そのことが事態をさらに悪化させているように思えた。
家族と一緒に、弟と2人で、あるいは私1人で、さまざまな病院に出向いたが、病状は快方に向うどころか悪化するばかりだった。
それでも諦めきれずに、いやがる弟を説得してやっとの思いで訪れた病院だったのだ。
医師はそれきり何も言わなかったが、言いたいことはすぐにわかった。
アルコール依存症患者がアルコールを断たずに失敗ばかりしているのは、それを支えている人がいるからです。
あなたがその関係性を断ち切って弟さんを地獄に突き落とさないかぎり、弟さんは甘えてしまって、辛い治療に立ち向かえない。
もっとも、あなたが手を離したら……。
待合室でポツンと座っている弟の姿が目に浮かび、どうしたらいいのかと途方にくれた。
7年前に弟が旅立ってからも、その問いから解放されることはなかった。
私はどうすればよかったのだろう……。
しかし、最近、ある本に出会い、その答えをみつけることができた。
成瀬暢也・著『アルコール依存症治療革命』(以下、『治療革命』)である。
出版されたのは、弟が旅立った8か月後だ。
弟には間に合わなかったが、多くの人に知ってほしいと願い、この原稿を書いている。
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同書によると、依存症や依存症者に対する誤解や偏見が依存症者を追いつめ、多くの自殺者や事故死者、病死者を出しているという。
しかも、これまでのアルコール依存症治療は刑務所がモデルだった。だが、本当に必要なのは「酒をやめさせることではない」と成瀬氏はいうのだ。
それは、どういうことだろう。
弟の異変にまっ先に気づいた家族は私だった。
就職して2年目の年だ。仕事帰りに電車を乗り換えようと、新宿駅のコンコースを歩いていたときのことだった。
向こうからなにやら得体のしれない人間がふらふらやって来る。
大勢の通行人の中でも目を引くほどに異様なオーラをまき散らしていて、すれ違う人々が次々に振り返る。
それが弟だとわかったときの衝撃はいまだに忘れられない。
「どうしたの、そんな格好して?」
「別に、どうもしないけど?」
とにかく一緒に夕飯をと、駅ビルの天ぷら屋に引っ張っていった。
テーブル越しに向き合った弟は私の知っている弟ではなかった。
身なりや表情もだが、もっと深いところで何かが決定的に違うのだ。最後に会ったのはほんのひと月ほど前のことなのに、一体なにがあったのだろう。
「俺、大学やめようと思って」
案の定、いきなりそんなことを切り出した。
「えっ、なんで?」
「なんでってことないけど、俺には合わないからさ」
弟は、一浪して志望校に入った。上京して予備校に通い、猛勉強して入学したばかりだ。
「あんなに入りたがってたのに。もう少し時間をかけて決めたら?」
何度か説得したが、夏休み前にあっさり大学を辞め、また受験勉強をして翌年、福祉関係の大学に入った。だがその学校も、卒業を目前にしてやめてしまう。
驚いた両親が実家に連れ戻し家業を手伝わせたが、それもうまくいかず、やがて出社できなくなった。
弟の中で、なにか取り返しがつかないほどおぞましいことが進行しているという切実な感触があるのに、それが何なのかわからない。
父が精神病院に連れていったが、医師もアルコール依存症だとは特定できず、両親が甘やかして育てたせいでわがままになったのだと、遠回しに言われたらしい。
昭和末期のことである。
アクセスできる情報は今とは比べものにならないほど乏しく、私たち家族は本当に無知だった。
アルコール依存症の専門性に乏しい精神科医にも多く出会った。
弟は最初の大学に入ってすぐの新入生歓迎会で1升酒を呑み、それから酒浸りになって、あっという間にアルコール依存に陥ってしまったのだということが後追いでわかった。
だが、私たちがやっと本当の病名に辿りついたとき、弟はもう40代に入っていて、そのときはもう病気はかなり進行し、こじれていた。
アルコール依存症は、ひどく残酷な病気だ。
一度かかってしまったら治ることは絶対になく、放っておけば進行する。
しかもアルコール依存になってしまうと、脳が変性してしまうため、酒を飲まないでいることは非常に難しい。
先日、メジャーリーグで活躍する大谷翔平さんの元通訳のギャンブル依存症が大きな話題になったが、彼について報道されたことにはアルコール依存症患者との共通点が多く、身につまされた。
アルコールを手に入れるためなら見え透いた嘘をつき、のっぴきならない状況でも虚勢を張って平静を装う。
私もある時点から、弟の言うことが本当なのか作り話なのか、まったくわからなくなってしまった。
弟は多くの失敗をし、他人さまに多大な迷惑をかけた。
シラフになると身の置きどころのないほどの自己嫌悪に陥り、ひどく落ち込む。その度に自尊意識が損なわれていった。
一時は料理の修業をし、料理店を任せてもらうまでになったが、どの店も半年ともたなかった。
連絡を受けて店に駆けつけ、平謝りに謝って引き取る。
そして病院へ連れて行くのだが、せっかく信頼できる医師に出会えても治療効果は薄く、やがて微かな光すら見出だすのが難しくなった。
「もう弟さんを手放したらいかがですか」
医師にそう言われた4年後に、弟は本当に死んでしまった。
自宅の敷地内に倒れているのを隣家の人が発見してくれたときには、既に息がなかったそうだ。
それが1月3日。検死や諸々の状況から、亡くなったのはおそらく1月1日の未明だろうということになったのだ。
晩年の弟はとにかく辛そうだった。
調子が悪いときは、ひっきりなしに電話をかけてきて、
「僕は本当に弱い人間だ。どうしてこんな病気にかかってしまったのだろう。人のために役立つ人間になりたかったのに。いつも迷惑ばかりかけてる。ごめんね」
泣きながらそんな言葉を繰り返した。
あのときの医師のことばは、胸の奥深くに刺さっていたが、結局、私は最後まで弟を手放すことができなかった。
私にできたのは、死に向かおうとする弟を、どうやって今日1日、こちらの世界に引き止めておけるだろうかと心を砕くことだけだった。
それでも私が手を離していれば、何かが変わり、もしかしたら弟を死なせずにすんだのだろうか。
そんなことをずっと自問していた。
その答えを与えてくれたのが『治療革命』だ。
同書を読んでまず驚いたのが、依存症治療における「神話」である。
これまで当然のことと捉えられていた以下の考えには、何の根拠もないというのだ。
「依存症の治療には『底つき』が必要である!」
「回復にはミーティング(自助グループ)しかない!」
「自分から治療を受ける気持ちにならないとダメ!」
「依存症の治療は続かない!」
「何が何でも断酒を目指すしかない!」
弟を苦しめていたことばかりではないか。
これが神話だったというのか。
たとえば、「底つき」について。
20世紀半ばに多用されたアプローチでは、「人格を再構築するためには人格を打ちのめすことが必要」と考えられていた。
家族などの援助を極力排除して、「底をつき完全に降参する」プロセスを踏むことが正しい方策であるとされてきたのだ。
あのときの医師もそれに則っていたのだろう。
だが、「底をつかせる」ことにエビデンスはなく、悲惨な結果を招くことも少なくなかったというのだ。
成瀬氏は、こうした方向性は「支援」ではなく「矯正」であり、刑務所がモデルだったのではないかと指摘する。
しかし、「刑務所モデル」が逆効果であることは実証されており、エビデンスに基づいた治療に向けて、今は大きな転換期にさしかかっているという。
『治療革命』によると、アルコール依存の根っこには対人関係障害があり、依存症患者の多くに、以下のような問題がみられるという。*1:p.77
こうした特徴は、弟の状況と驚くほど一致している。
一方でアルコール依存症患者は、世間からは「不真面目で意志が弱い自己中心的な人格破綻者」とみられるのが一般的だ。
しかし、アルコールを断つことが難しいのは、よく誤解されるように「意志が弱いから」ではない。
アルコール依存症は飲酒のコントロール障害を主症状とする病気であり、自己制御困難こそがその症状なのである。
うつ病の患者を、元気がないと責めるだろうか。
認知症患者に「忘れるな」というだろうか。
それなのに、依存症患者には「自分で我慢してやめなさい」と強要してしまいがちだ。
しかし、断酒の強要や再飲酒への叱責は逆効果にしかならないことが既に証明されている。
断酒の必要性を十分に説明した上で、患者本人が断酒を望まないのであれば、飲酒量低減という選択を尊重するよう成瀬氏は提唱する。
アルコール依存症の治療・支援の目的は「酒をやめさせること」ではなく、「生きにくさの支援」「生きることの支援」だからである。
患者は人間関係の問題を抱え、それ故に生きにくく苦しい。その生きにくさに対する支援が必要なのだ。
アルコール依存症は、健康な人の中で回復する。健康な支援者とは、患者に共感し、患者を1人の人間として尊重できる人間であると成瀬氏は説く。
それをきれいごとだという人もいるだろう。
私自身、弟が失敗し、他人さまに迷惑をかけることが度重なるにつれ、弟への愛情が憎しみに変わる瞬間を何度か味わった。
それだけに、それがどれほど難しいことか骨身にしみている。
しかし、「失敗の許されないところに成長はない。失敗の許されないところに回復はない」と成瀬氏はいうのだ。
全国に109万人いると推定されるアルコール依存患者のうち、治療につながっているのは4~5万人。
アルコール依存症患者はもちろんだが、患者を抱える多くの家族も、悩み苦しんでいる。
同書が示す新たな治療法が、患者だけでなく、その家族にとっても救いとなることを願っている。
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【プロフィール】
著者:横内美保子(よこうち みほこ)
大学教員。専門は日本語文法、日本語教育。パラレルワーカーとして、ウェブライター、編集、ディレクションの仕事もしている。
X:よこうちみほこ
Facebook:よこうちみほこ
Instagram:よこうちみほこ
Photo:Federico Lancellotti
参考資料
成瀬暢也(2017)『アルコール依存症治療革命』中外医学社(電子書籍版)p.10, p.22, p.23, p.52, p.56, p.67, p.75, p.77, p.80, p.85, p.96
中小企業の人手不足は深刻だ。
日本商工会議所が中小企業を対象に行った調査によると、人手不足と回答した企業は約7割で、そのうちの6割以上の企業が「非常に深刻」または「深刻」と答えている。*1
深刻な人手不足によって、経営の「次の一歩」を踏み出せないでいる経営者も多いのではないだろうか。
しかし、慢性的な人手不足にあって、優秀な社員を新たに雇うのは難しい。
そうした経営者に提案したいことがある。
それは、「優秀な社員を雇うことに腐心するより、ChatGPTを使いこなせる人を起用せよ」だ。
そのカギは「HumanGPT」(筆者の造語)。
「HumanGPT」の実践によって「次の一歩」を踏み出した企業がある。
その取り組みを通じて、ChatGPTの活用が中小企業の経営に有用であることをご紹介したい。
私は地方との関わりと実践をライフワークとしている。
とはいえ、ティネクトでの仕事が本業である。そんな私がまさかハム・ソーセージ屋さんの店長になろうとは思ってもいなかった。
発端は「中小企業デジタル応援隊事業」― 2020年9月から2022年2月末まで実施された、中小企業庁によるプロジェクトだ。
私はその「IT支援員」として、「農業法人京都特産ぽーく(以下、京都ぽーく)」というハム・ソーセージ屋さんとマッチングしていただき、同社の水森社長に出会った。
そして、同プロジェクトの取り組みとして、社長とECサイトの立ち上げ および 売上アップのためのディスカッションを何度か行った。
それで、このプロジェクトでの関わりは終了し、「京都ぽーく」とのお付き合いも終わった……はずだった。
ところが、その後、水森社長から個別にご連絡をいただいた。「今後もぜひサポートしてほしい」という、思いがけないご依頼だ。
そこで、当時、同社に在籍していた若手スタッフにマーケティング活動の基礎をレクチャーすることになった。
「京都ぽーく」はもともとBtoBが主力の会社だ。腕のいい職人集団で、思ったとおりの美味しい製品がつくれる、優れた加工技術が売りである。
しかし、コロナによってBtoBチャネル(飲食店など)が壊滅的な打撃を受け、このまま売上低迷が続けば会社の存続も危うい、という状況のなか起死回生の策としてBtoC つまり消費者への直接販売を伸ばす方針に舵を切ったのだった。
そんな背景から、若手スタッフにマーケティングの考え方と手法を覚えてもらい、WEB上でキャンペーンを企画するなどの実践をしているうちに、BtoCの売上が徐々に伸び始めた。
……と思いきや、その若手スタッフが事情によって退社。それ以降、WEBマーケティングの活動が完全にストップしてしまった。
だがそれは、チャンスでもあった。この契機に一度立ち止まって、それ以降のBtoC戦略を描き直すことにしたのだ。
そうして立てたのが、以下のような仮説である。
マスブランドを目指さない地方食品メーカーの生き残り戦略としては、不特定多数の方に知っていただき買っていただくより、特定のコアファンがブランドを一緒に育ててくれるような取り組みの方が、相応しいのではないか。
そこで、何度もリピートしてくださっている顧客を招き、ファン・ミーティングを開催してみた。すると、コアファンとの繋がりを深めていくという方針に手応えを感じることができた。
問題は「担当者の不在」である。ECサイトを運営しファンを増やす人材がいないのだ。
そういう状況で、水森社長の次の言葉が降ってきた。
「倉増さん、ネットショップの店長、やってくれませんか?」
思いがけないオファーだった。
だが、社長は「この人のためなら!」と思えるような魅力的な人物で、その魅力に抗うことは難しい。この人の会社をなんとかして盛り立てたい! そんな思いにかられた。
それから、もうひとつ。
今の社会はみんな心の余裕がなく、自分のことに汲々としているような印象を持っている。
他者への思いやりや感謝の気持ち、他者を労わる気持ちがあったとしても、それらを効果的に伝える手段が見出せず、人々はだんだんと孤立に追いやられているのではないか。そんなことを常々感じていた。
そんな時代に、「京都ぽーく」の美味しいハム・ソーセージを通じて、人と人との繋がりを取り戻してほしい。そして、人々に笑顔を提供し、その笑顔の輪を広げていきたい。
そんな思いもあった。
そこで覚悟を決め、副業として店長をお引き受けすることにしたのである。
現在、「京都ぽーく」のネットショップでは、母の日キャンペーンを実施している。
このキャンペーンは企画の段階からChatGPTをフル活用した。
まず、そもそもの活動目的、目標を定めるところからChatGPTを壁打ち相手に問答を繰り広げた。具体的にはこんな感じである。
ChatGPTは尤もらしいことを答えてくれる。が、一般論が欲しいわけではない。
自分なりのしっくりくる理由が欲しい。そこで、しばらくやりとりが続いた。
「人々とのつながり」これは私自身の問題意識とも符合する。
さらに問答は続く。
このようなやりとりを経て、自分の中に母の日のキャンペーン・コンセプトが浮かんできた。
「母の日」に感謝の気持ちを伝えるのは、実母だけでなくてもいいのではないか。
たとえば、「“母親業”を頑張っている友人」や「母親のような身近な存在」に感謝の気持ちを伝え、あるいは励ますことにも意味があるだろう。
それに、人を励ますことは、自分自身の励みにもなるはずだ。
ならば、母の日をターゲットDAYにして、身近な人が贈り物を通じて気持ちを伝え合い、讃え合うような文化を創造できないだろうか!
ある調査によると、「母の日にもらって嬉しかったものや欲しいもの」第1位は「手紙・感謝の言葉」であるという。(ちなみに、2位は「手書きの絵」3位「花」と続く)
やはり、本当に欲しいのは物よりも心なのだ。
だから、ただ物を贈るのではなく、心を乗せることが必要だと確信した。
ただ、感謝の心を言語化し、メッセージとして伝えるのは案外ハードルが高い。
特に男性は、自分の気持ちを伝えることに照れがあり、面倒くさがって、後回しにしがちだ。
こうした苦手意識の解消に貢献できる手段はないものかと考え、辿り着いたのが、「ありがとうを伝えよう」メッセージクリエイターの設置である。
ChatGPTをカスタマイズして自作した簡易アプリである。(ノーコードアプリなので、30分もかからず作成することができた)
ユーザーは以下を入力するだけ。
贈りたい人との関係性:お母さん、妻、お世話になった恩人など
感謝の気持ちを表すキーワード:日頃の感謝、子育てへのエール、励ます言葉など(選択するだけでOK)
これだけで、ユーザー毎にカスタマイズされた感謝のメッセージが自動生成される。しかもそのメッセージは、メールやSNSで簡単に共有することもできる。
もちろん、京都ぽーくの母の日ギフトをご購入いただき、贈る相手にメッセージを同梱していただくのが真の狙いだ。
しかし、メッセージクリエイターを利用するには有料のChatGPT Plus契約者に限定されるため、人力でのメッセージ作成サポートも対応することにした。
こうして生成されたメッセージはSNSで簡単に共有できる形式で提供されるため、ハッシュタグ「#ありがとう京都ぽーく」を使ってキャンペーンの波及効果を高めることができる。
また、メッセージを生成・共有したユーザーの中から抽選で、母の日仕様のハム・ソーセージ・ギフトセットをプレゼントするという、特別プロモーションも企画した。
ギフトを購入しなくても、メッセージクリエイターを試すだけで、プロモーションの対象になるというものだ。こうして、「京都ぽーく」にとって経営の「次の一歩」となる、母の日キャンペーンを展開することができた。
(以下がそのキャンペーンページです。ぜひご応募ください。)
「京都ぽーく」の事例が示すように、人手不足に悩む中小企業であっても、ChatGPTを活用すれば、経営の「次の一歩」を踏み出すことができる。
そのための秘訣が、HumanGPT。
それは、以下のようなものだ。
ChatGPT × 人(経営者への共感 + 業務設計スキル)→ HumanGPT
単にChatGPTが使えるだけでは経営を前進させることはできない。
土台となるのは、経営者への深い共感であり、その上で、たとえ特定の業務に精通していなくても構わないが(私だってネットショップ店長は未経験である)、ChatGPTと対話しながら経営者の想いをタスクに落とし込むための業務設計スキル、これが問われる。
AIと「人」とのコラボレーションは、そうした基盤があってこそ、相乗効果を産み出すのである。
では、HumanGPTの具体的な仕事術とは、どのようなものか。ご関心をお持ちの方は、5月13日のセミナーに是非、ご参加ください。そこでじっくりお話しし、ご質問にもお答えします。
みなさまのご参加をお待ちしています。
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<セミナー情報>
資料
*1
日本商工会議所「「人手不足の状況および多様な人材の活躍等に関する調査」 の集計結果について ~中小企業の7割近くが人手不足、8割強が仕事と育児の両立推進が必要と感じていると回答~」(2023年9月28日14:00)
<プロフィール>
倉増京平
2002年、電通グループ企業(現社名 電通デジタル)に入社。顧客企業のデジタル領域におけるマーケティングサポートを長く手掛ける。2019年よりティネクト株式会社に取締役として参画。新たなビジネスモデルの創出と事業展開に注力し、コンテンツマーケティングの分野で深い知見と経験を積む。
コロナ以降、地方企業のマーケティング支援を数多く手掛け、デジタル・トランスフォーメーションを促進する役割を果たす。2023年は生成AIをマーケティングの現場で実践的に活用する機会を増やし、AIとマーケティングの融合による新たな価値創造に挑戦している。
転職や異動をすると、新しい職場に新鮮さを感じる一方で、慣れるまで不安だったり気疲れしたりしますよね。
本記事では、新しい職場に慣れるための心構えとポイントについてお伝えします。
新卒で会社に入社した時を思い出してみてください。
右も左も分からなく、周りは先輩ばかりの状況ですよね。
人間関係も構築されておらず、大半が知らない人です。
中途社員も同じで、初めての会社であれば、コピー機の場所や、勤怠の管理ツールの使い方など、基本的なことが分からなくて当然です。
なので、「早く成果を出さなければ」「早く周りとの関係性を作らなければ」などと、必要以上に思いつめなくても大丈夫です。
焦って肩と肘に力が入りすぎると、逆に変なことになってしまう可能性が高いです。
他の社員からすれば、新しく入ってきた人がいきなり来て、「何だかよく分からないことを言っている...」ということになりかねません。
そのため、私はしばらく「潜水艦のように潜る」ことをオススメします。
もちろん、ただ潜っていればいいというわけではありません。
職場をよく観察しましょう。
その職場で誰がキーパーソンなのか。
誰が長年その職場にいるのか。
誰が情報を握っているのか。
誰の影響力が一番効いている職場なのか。
そういったことを冷静に見極め、部署の特性や会社の文化を理解することがとても大事です。
ランチに一緒に行くなどの交流もどんどん積極的にしてみてください。
しかし、いきなり会議に出て正論をベラベラ喋るということは、少なくても2~3週間から1ヵ月ぐらいは控えておいた方が無難です。
まずはよく観察をし、どういう人間関係で、どういう人がどういう形で誰にどういう風に気を使っているのかを把握することを心がけてみてください。
そうすると、「押してはいけないボタン」にも気が付くはずです。
これは、異動の場合でも同じことがいえます。
同じ会社とはいえフロアや部署が違えば、それぞれ別の文化があります。
特に、何か抜擢人事(※若手社員を高いポジションに就かせること)をされた時には、どのくらいの実力の人なのかをみんなが注目しています。
そうすると、「早く活躍しなきゃ」と肩と肘に力が入りすぎ、空回りする可能性もあります。
まずは、異動先の文化の見極め期間を設けるようにしましょう。
逆に周囲の人も、あなたが転職や異動をしてしばらくは「この人はどんな人だろう?」と観察している時期でもあります。
今後一緒に仕事をしていく中で、スムーズに関係性を構築していくためにも、良い印象を与えられるような振る舞いをしておくことが大切です。
例えば、
・挨拶をきちんとする
・明るく接する
・話をしっかりと聞く
・顔と名前を覚える
といったことです。
会社によって、仕事の進め方やルールは異なります。
ついつい前職と比較してしまうこともあると思いますが、「前の会社ではこうでした」などと言うのは、あまりよくは思われないので、できるだけ控えるようにしましょう。
もし改善点があったら、職場になじめた頃に、少しずつ提案をしていくようにしましょう。
「教えてください」と言われて嫌な気持ちがする人はほとんどいません。
今までのキャリアやプライドもあるかもしれませんが、最初は「教えてください」というスタンスで始めた方が、いろんな意味で無難だと思います。
これは、潜水艦として潜って周囲を観察している間に、同時進行で行いましょう。
転職や移動の際には、初日からあまり焦らないということが重要です。
誰がキーパーソンなのか、どういう物の言い方をすることがこの会社のしきたりなのかなどを見極めましょう。
優秀な方でほど肩と肘に力が入ってしまい、いきなり最初から「頑張るぞ」と気合が入りすぎてしまいがちなので、ぜひこのことを頭の片隅に留めておいていただければと思います。
(執筆:田久保 善彦)
【著者プロフィール】
日本で最も選ばれているビジネススクール、グロービス経営大学院(MBA)。
ヒト・モノ・カネをはじめ、テクノベートや経営・マネジメントなど、グロービスの現役・実務家教員がグロービス知見録に執筆したコンテンツを中心にお届けします。
Photo by:Paul Fiedler
イギリスで「禁煙法」のようなものが可決された。そんなニュースがあった。
英下院、たばこ販売禁止法案を可決 2009年以降生まれを対象に
イギリスの下院は16日、2009年1月1日以降に生まれた人が生涯にわたってたばこ製品を買えなくする法案を可決した。
リシ・スーナク首相が主導した「紙たばこ・電子たばこ法案」は、383対67の賛成多数で下院を通過した。首相経験者を含む複数の与党・保守党幹部が反対票を投じた。
施行された場合、イギリスのたばこ規制法は世界で最も厳しい部類のものとなる。
似たような法律がニュージーランドで先行して施行され、その後に撤回されたとかあったが、とにかくイギリスはこのような道を選んだ。
おれはたまたま倫理学入門の本を読んでいたので、「これは倫理学が取り扱う問題だな」と思った。とくに児島聡『実践・倫理学』においては第5章が「他者危害原則と喫煙の自由」だ。まさにたばこの問題を取り扱っている。
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これをもとに、今回のイギリスの禁煙法や、ほかの依存症への自由とパターナリズムについてちょっと考えてみたいと思う。
まず、おれとたばこについて書いておく。
もう時効になるというか、自分の嗜癖を告白するのにごまかしはよくないことだろう。おれがたばこを吸い始めたのは18歳、大学1年生のときだった。
生来、友だちを作ることが不得手なおれは、「たばこを吸っていれば一人でいる理由になる」というように考え、大学で吸い始めた。そのせいで、話をするようになった同級生が一人できたが。
吸っていたのはJTが出していたジタン120Sという銘柄だった。おれは昔F1を見ていて、そのなかのリジェというチームが車体にジタンのトレードマークであるダンサーの絵を入れていて、「かっこいいな」と思ったものである。
とっくの昔にF1でのたばこの広告は禁止された。若者が見て影響があってはいけないということだろう。そんな影響はあるのだろうか。おれにはあったわけだが。
そのジタンがなくなった。廃番だ。おれはついでジョーカーというタバコを吸い始めた。ニコチン、タール量が凶悪な、茶色くて細長いたばこだ。このジョーカーも、なくなった。
その次が見つからなかった。キャメルとか、アメスピとか、中華街の自販機で売っていたハーブたばこ(ニコチン、タールフリー。合法品。ただ、警察官の親戚の前で吸っていてたら「大麻っぽい匂いがするな」と言われた)とか……。
どうも興味が失っているところに、増税がきた。金のないおれは、さっぱりたばこを辞めてしまった。
ニコチン中毒、たばこ依存症ではなかったのかもしれない。それから20年以上、吸っていない。ヘビースモーカーである弟(チェリーを吸っていたので、おれと同じく銘柄難民になった)から10年に一度くらい1本恵んでもらうこともあるが、「たばこってこんなんだっけ?」というくらいのもので、再開もしない。
家庭環境はどうだったか。父親がたばこを吸っていた。副流煙は大嫌いだった。父親はたまに禁煙したりするが、また始めたりを繰り返し、結局はどうだったのだろうか。
おれがたばこを吸い始めたときには、母から「あんたは副流煙を嫌がっていたから、自分で吸い始めるとは思わなかった」と言われた。
いや、喫煙者も副流煙は嫌いだよ。他人が吐いた煙なんてくさくて、鬱陶しくて、嫌になる。そりゃあ大井競馬場なんかに行って、鉄火場に流れるたばこの匂いなんかをかぐと「競馬場きてるな」みたいな気持ちにはなるが、そんなものだ。
とくに飯のときなど、他人のたばこの煙なんて最悪だ。おれは飯のあとに、たばこを吸った。そういう習慣だった。でも、飯の場では吸わなかった。飲み屋とかには行かなかったのでわからない。
その副流煙については、くさい、むせるというだけでもないと言われるようになった。今では当たり前だが、具体的に語られるようになったのも20年前くらいからじゃないだろうか。受動喫煙の問題といったほうがいいのか。
たばこの煙には、喫煙者が吸う「主流煙」、喫煙者が吐き出した「呼出煙」、たばこから立ち上る「副流煙」があり、受動喫煙では呼出煙と副流煙が混ざった煙にさらされることになります。煙に含まれる発がん性物質などの有害成分は、主流煙より副流煙に多く含まれるものがあり、マナーという考え方だけでは解決できない健康問題です。
あ、すみません、おれ、喫煙者が吐き出したものを「副流煙」だとずっと思っていました。というか、上に「副流煙」と書いたのもそれですわ。
「呼出煙」というのか。知らなかった。知らなかった衝撃を共有したいので、上のは直さないでおきます。「環境たばこ煙」なんて言葉も初めて見た。今日はこれだけでも覚えて帰ってください。
で、マナーだけではなく健康問題、ということになる。
受動喫煙 – 他人の喫煙の影響 | e-ヘルスネット(厚生労働省)
受動喫煙との関連が「確実」と判定された肺がん、虚血性心疾患、脳卒中、乳幼児突然死症候群(SIDS)の4疾患について、超過死亡数を推定した結果[1]によると、わが国では年間約1万5千人が受動喫煙で死亡しており健康影響は深刻です。
とはいえ、まだJTは完全降伏していないようだ。国立がん研究センターにガンガン攻められている。これが消えていないということは、JTの見解も変わっていないのだろう。
受動喫煙と肺がんに関するJTコメントへの見解|国立がん研究センター
JTコメントは、国立がん研究センターが行った科学的アプローチに対し十分な理解がなされておらず、その結果として、受動喫煙の害を軽く考える結論に至っていると考えられます。これは、当センターとは全く異なる見解です。
国立がん研究センターの見解を、科学的な立場から改めて提示します。
しかしなんだろうか、ここはどうも「受動喫煙」という害がある。「環境たばこ煙」を出すことは他者を危害する行為だと前提したほうがよいだろう。
『実践・倫理学』でも受動喫煙については保留付きで「周囲の人間に害をもたらす前提」で話が進められている。
さて、倫理学からたばこ問題を見ると、ミルを見るということになる。J.Sミルだ。
彼は「文明社会の成員に対し、彼の意志に反して、正当に権力を行使しうる唯一の目的は、他人に対する危害の防止」であり、「個人は自己の行為について、それが自分意外の人間の利害に関係しない限り社会に対して責任をとる必要はない」と述べ、自由主義の根本的原則を定式化した。
『実践・倫理学』
「環境たばこ煙」が危害にあたるのであれば、権力の力によってそれが制限される、というのが当たり前ということになる。
しかしまあ、『実践・倫理学』には「環境たばこ煙」が危害にあたらないとされていた時代の文例が出ていたのだが、これがすごい。伊佐山芳郎『現代たばこ戦争』という本からの孫引きになるが、こんなことが当時は言われていた。
職場で同僚の吸うたばこの煙に悩んでいるOLの人生相談に対して、小室氏(評論家の小室加代子氏)は次のような回答を寄せた。「本当はそんなにいやなら、会社をやめたらいいのです。私があなたの上司なら、そういいますよ。隣のオジサンは、ニコチン中毒であろうとあなたよりは会社に貢献してきたのです」「間接喫煙ぐらいでシボむような花ならポイですよ」「あなたはニコチン中毒よりも、もっとしまつの悪い一流中毒者のようですね」
『実践・倫理学』
……こんなの令和どころか平成の時代であっても大炎上確実であろう。でも、「嫌煙権」という言葉が生まれた40年前くらいはこんな認識であった。
なるほど、他人のたばこの煙は心地よいものではないにせよ、明確な危害からは程遠かった。おれも昭和の人間だが、物心ついたころにここまでの喫煙主義はほとんど見たことはない。
いずれにせよ、喫煙についてこのような論は見られなくなった。ミルの原則が完全に正しいとか、世間に受け入れられているスタンダードであるとは言えないだろうが、基本的には他人に害を与えてはならんというのが通る。
とはいえ、もしも喫煙者が完全な個室でただ一人吸うだけで、一切他者にたばこの害を与えないとしたらどうだろう? たばこの害を受けるのは喫煙者そのひと以外にいない。ミルはこのように述べる。
[行為者当人の幸福は、それが]物質的なものであれ精神的なものであれ、[その人の自由を制約する]十分な正当化となるものではない。そうするほうが彼のためによいだろうとか、彼をもっと幸福にするだろうとか、他の人々の意見によれば、そうすることが賢明であり正しくさえあるからといって、彼に何らかの行動や抑制を強制することは、正当ではありえない。
『実践・倫理学』
ちなみに著者の児玉聡は、ミルが「助言や説得はいいんだよ」みたいなことも言っていると書いている。ただ、究極的なところでパターナリズムによる強制を否定している。
というわけで、私的空間での喫煙まで禁じる今回のイギリスの禁煙法は行き過ぎなのだろうか。BBCの記事には法案への反対意見が掲載されていた。
投票では、リズ・トラス前首相を含む何人かの保守党議員が、個人の自由を制限するとして法案に反対票を投じた。
トラス氏は、この法案は人々を幼児化させる危険性があると下院で述べた。
「人が成長する過程で意思決定ができるようになるまで、彼らを保護することは非常に重要だ。しかし大人を自分自身から守るという考え方は非常に問題だと思う」
閣僚経験者のジェイク・ベリー卿は、ニコチン中毒者のことよりも、「政府が人々に何をすべきかを指示する中毒性」を懸念していると語った。
「私は、良い決断も悪い決断も自由にできる自由な社会に住みたい」
これは、J.S.ミル的な自由論に立脚しているように見える。「悪い決断」には他者を危害する自由まで含まれていないだろう。
ちなみに、「人が成長する過程で意思決定ができるようになるまで」とあるが、ミルも「子どもや『未開人』にはパターナリスティックな介入が許される」と考えていた。いわゆる「愚行権」を使えるのは成人である。
とはいえ、イギリスにおいては生年による区別はあるとはいえ(いずれ時が経てば「全員」になるわけだが)、禁煙法が成立した。
どのような意見によるものであろうか。『実践・倫理学』には私的空間における喫煙を制限すべきだという意見が紹介されていた。オーストラリアの哲学者であるロバート・グッディンという人の意見だ。
グッディンによれば、喫煙に関しては、このインフォームド・コンセントが成り立っていない。なぜなら、第一に、喫煙者は喫煙の害悪について十分なリスクが知らされておらず、第二に、たとえ知らされていたとしても、喫煙は依存性が強いために、自発的な同意をしたと言えないからだ。したがって、喫煙者の同意は有効ではなく、政府は彼らを喫煙の害悪から守る義務がある。
『実践・倫理学』
ちなみにグッティンさんは単に規制を主張しているわけではなく、「自由を尊重した仕方」で禁煙政策を比較検討すべきだとしている。
で、これに近い意見が、BBCの記事で紹介されていた。
ヴィクトリア・アトキンス保健相は「依存症に自由はない」と、法案を擁護。「たばこのない世代」を作り出すと説明した。
また、「物事を禁止する」ことへの懸念は理解できるとしながらも、 「ニコチンは人々の選択の自由を奪う」ものだと指摘した。
「喫煙者の大半は若いときに喫煙を始め、その4分の3は、もし時間を戻せるなら喫煙を始めなかったと言う」
ここにおいて、依存症者はJ.S.ミルの言う「子ども」や「未開人」と同等の扱いになる。依存症者はインフォームド・コンセントを受けられると言えない存在となっている。
2009年1月1日より前に生まれた人間についてはどうなのか? という法の組み立てや、それに関する倫理学的な見解というのは正直わからない。
わからないが、「依存症に自由はない」ということだ。自由にさせない、ということではなく、「自由な選択が奪われている」ということになる。
なるほど、そういう考え方もあるだろう。だが、しかし、どうなのだろう?
ニコチン依存症の度合いは強めだ。かなり強い。あっさりやめられたおれは実体験として語れないが、そういうことになっている。
では、ほかの依存症はどうなのか。代表的に挙げられるのがアルコールということになる。おれはアルコール依存症疑いが強い。
でかいペットボトルの焼酎を買う人間の末路 _ Books&Apps
このおれが言うが、アルコール依存症も強い。強い上に、身体や精神への害が大きい。
他者危害でいえば、アルコール飲用者による家庭の破壊や、単純な暴力、飲酒運転などの事故を考えると、たばこの比ではないように思える。もちろん、WHOなどもたばこの次はアルコールだと考えているだろう。
「お酒は人類の文化だから」などという言い訳は通用しない。たばこも文化だった。極端なことをいえば奴隷だって文化だと言える。中東などの未婚女性の性交渉における「名誉の殺人」の因習を「文化だから」と認められるだろうか。
認められる文化というものは、時代とともに移り変わる。「文化だから」は通用しない。いずれアルコールもだんだんと規制されていき、「依存症に自由はない」と禁酒法がふたたび成立する時代がくるかもしれない。
さて、問題は物質使用障害だけにとどまるだろうか? 嗜癖行動についても、同じく「依存症に自由はない」と言われないとも限らない。たとえば、ゲーム依存。
もしも「ゲーム障害」が本当にあったら _ Books&Apps
まだかつての嫌煙論的に議論の最中ではあるが、ゲーム障害もそれを依存症と考える専門家がいて、その議論もなされている。
なんなら、「香川県ネット・ゲーム依存症対策条例」みたいに、先走った事例がある。「ネット・ゲーム依存症に自由はない」と言われる日だって、あながち空想とはいえない。
さて、そんな日が来そうになったとき、ゲーム好きはどうするべきだろうか。あるいは、今、どうするべきだろうか。
ゲーム好きの人が「おれはたばこが嫌いだからたばこは完全に禁止してしまえ」と考えることもあるだろう。おれだって、なんにも考えない単純な感覚でいえば、べつにたばこが完全非合法になったところで困らないし、むしろ歓迎したいくらいだ。とはいえ、だ。
(ところでこのあたりで「ニーメラーの警句」を思い出す人がいるかもしれないけど、ナチスが社会民主党を攻撃したとき、ドイツ共産党がナチスと共闘して社会民主党を攻撃してたって知ってた?)
「私は、良い決断も悪い決断も自由にできる自由な社会に住みたい」という言葉には、一つの価値がある。だからといって、嗜癖と呼ばれうる趣味をもつ人間がたばこの規制に反対するべきであるとは言わない。
たとえばゲーム依存症の他者危害はなにか? という話にもなる。そういう話にならなければならない。
パターナリズム的なものを単に「パターナリズムだ」と批難するだけでは終わらない。人間がなにをもって、どこまで自由でいられるか。これはつねに問われ続ける問題だ。時代とともに移り変わるものでもある。
倫理学者の加藤尚武は「許容できるエゴイズムの限度を決めること」を倫理学の課題だとしたが、倫理学は現実社会、そして法につながるものだ。好き嫌いだけでなく、いろいろ考えておいて損はない。そのように思う。
とりあえずおれは、ギャンブル依存症の対象であり、動物虐待ともされ、人馬ともに競技者の命にも関わるというかなりやばい「競馬」というものをどう弁護するか考える。……勝ち目は薄そうだが。
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【著者プロフィール】
著者名:黄金頭
横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。
趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。
双極性障害II型。
ブログ:関内関外日記
Twitter:黄金頭
Photo by :Mathew MacQuarrie
「つゆだく言うても程があるやろ、作り直せやババァ!」
そんな暴言で吉野家の店員さんを怒鳴りつけたのは、50代くらいのビジネスパーソンだろうか。
乱暴な言葉遣いと裏腹に、濃紺のスーツに白Yシャツ姿の紳士だ。
ビジネス街なのでおそらく近辺の、大きな会社の社員なのだろう。
「大変申しわけございませんでした、すぐにお作りし直します」
震える声で応えながら牛丼の器を下げるのは、70歳前後にみえる細身の女性である。
顔面蒼白になり、やや緩慢な動作でお盆を運ぶ姿に母親が重なって、胸に痛みを感じる。
平日の夕方、食事には中途半端な時間なので、客はそのオッサンと私しかいない。
さすがにこれ以上何か言おうものならケンカを買ってやろうかと思ったが、幸いオッサンは作り直された“ちょうどいいつゆだく”に満足し、すごい勢いで食べると乱暴にお金を叩きつけ、店を出ていってしまった。
「大変でしたね。どうかあんなヤカラのことはお気になさらずに、お仕事頑張ってください」
「いえいえ、お騒がせしてしまい本当に申しわけございませんでした」
ホッとした顔で、応えてくれる女性。
実直に仕事に取り組んでいる、誠実なお人柄が窺える。
いい歳をしたオッサンが牛丼の“つゆの量”で激昂するなど、もちろんそれ自体が異常な光景だ。
会社や仕事で、きっとおもしろくないことがあったのだろう。
理不尽な顧客や上司にストレスを感じているのであれば、それはそれで同情しないわけではない。
しかしこういったオッサンは、大事なことに全く気がつけていない。
負の感情を周囲に撒き散らすことは、お金をドブに捨てているのと同じという事実についてである。
決して精神論の話ではない。文字通り、現金をドブに捨てているのである。
話は変わるが、先日取材で沖縄・那覇に行ったときのことだ。
国際通りなど観光地での食事ももちろん魅力だが、地元の人が行くようなディープなお店を開拓するのもやはり旅先の楽しみである。
そんな中、観光地から少し離れた昭和レトロな栄町市場にある、一軒のビストロを訪問することがあった。
沖縄の郷土料理、ヤギ肉を専門にするフレンチ・イタリアンのお店である。
ヤギ肉の刺身をイタリアンにアレンジした”ヤギパッチョ”に、ボロネーゼに使うひき肉はヤギ肉というような徹底ぶりだ。
普段は地元の人ばかりで賑わうお店のようなので、予約の電話の際にはビジターであることを正直に伝える。
「どうぞお好きな席をご利用ください」
当日、出迎えてくれたのは70歳前後の女性で、おそらく店主の母親だろうか。
18時のオープンとともに訪問したので、店内はまだ誰もいない。
4人掛けテーブル4つだけの小さなビストロだが、せっかくならキッチンに近い場所がいいと思い、奥の席に座った。
すると店主に呼ばれ、なにかを言われた女性が慌てて駆け寄り、こんな事を言う。
「申しわけございません、やはりこちらの席はお使いいただけません」
そして案内されたのは、トイレ横の席。
案内されて気がついたが、いろいろな意味で一番避けたい席だった。
ビジターは歓迎されていないことを思い知らされ、同行の友人たちに申しわけない気持ちになる。
その後ほどなくして残り3席も埋まるが、かりゆし姿など、言葉を含めて皆、地元の人である。
2組は初訪のようだったので、常連を優先というよりもやはりビジターに冷たい店のようだ。
そんな空気感に友人が少しイラつき、ソワソワし始めた。
「気持ちはわかるけど、つまらないことで腹を立てるのはやめろ」
小声でそんな事を伝えると、気を取り直していろいろ注文する。
そして運ばれてきた料理は、やはり予約困難店だけあってどれも本当に美味しい。
オードブルは沖縄料理をフレンチ・イタリアンにアレンジした盛り合わせ、ヤギ肉のボロネーゼも一切臭みがなく、むしろ今まで頂いたどこのお店よりも美味しい。
そんなこともあり、お酒をお代わりするたび女性に、そんな感動を素直に伝える。
「このスーチカー(豚の塩漬け)、本当に美味しいですね!正直、今まで美味しいと思ったこと、あまりなかったんです。最高です!」
「この野菜、驚くほど美味しいのですがこれも島野菜なのですか?」
すると女性も満面の笑顔を見せてくれ、それぞれの素材へのこだわり、入手が難しい野菜であることを熱心に話し始めてくれた。
その一つ一つに共感を伝え、本当に来てよかった、良い想い出になりますと感謝を伝える。
そんな食事の終盤、一つの問題が起きる。
このお店の一番人気、ラム肉の真空チョップで締めようと女性をお呼びするのだが、一皿2本盛りなのだという。
骨付き肉ということもあり、均等に3人で分けることもできない。
「おいどうする? 2皿やと1本余るな」
「ええやん、ナイフで切り分けて一皿を少しずつ食べよう」
「そやな、そうしようか」
待つこと20分。
「お待たせしました、こちらラムの真空チョップです」
お皿には、3本のラムチョップが盛られていた。
女性はにこやかに笑いお皿を置いていったが、そういうことなのだろう。
小声で感謝を伝え、同行の友人2人とウメエウメエといいながら貪り食った。
“席の移動”に気を悪くした友人だったが、店を出る頃にはすっかりと上機嫌になり、2件目はバーに行こうといい出すと、そのまま夜の沖縄を楽しみ尽くした。
本当に、良い思い出になった最高のビストロだった。
思うに、「オーバーツーリズム」という言葉があるように、私たちは観光地にお邪魔する時に、地元の人の生活に無遠慮過ぎる。
これは決して、インバウンドだけの問題ではないだろう。
きっと先のビストロの店主も今まで、観光客から不愉快な思いをたくさんさせられてきたのではないだろうか。
そんな背景を理解しようとせず、「俺は客だぞ」などと言う態度で“席移動”に抗議し、あるいは不機嫌な態度で食事をすればどうなるか。
お互いにとって不幸な、全く実りのない時間になったのは目に見えているではないか。
逆に相手の事情を理解し、感謝や共感とともに食事を楽しませてもらったら、思いがけないサービスやお心遣いまで頂くことになった。
狭い店内なので、一つ一つの料理をウメエウメエと言いながら楽しむ私たちの会話はきっと、店主にも聞こえていただろう。
「あのお客さん、とても楽しんでくれてたな」
そんな印象で店主の記憶に残ることができれば、これほど嬉しいことはない。
いろいろな意味で大事なことを学ぶことができた、思い出深い沖縄出張になった。
話は冒頭の、牛丼屋のオッサンについてだ。
なぜこういった負の感情を周囲に撒き散らすオッサンは、現金をドブに捨てているのと同じなのか。
沖縄での体験をお話した後に多くの言葉も要らないだろうが、そうもいかないので少し言語化してみたい。
私が沖縄のビストロで体験したことをシンプルに言えば、
「気遣いや感謝を言葉で伝えたら、きっと良いことがあるよ」
という、ただそれだけのことだ。
誰だって、一度や二度、そんな経験があるだろう。
学生時代、学食のオバちゃんと友だちになったら、唐揚げをたまに1個サービスしてくれた。
行きつけの町中華に出張のお土産を持っていったら、いつもより盛りが多かったとか、そんな些細なことである。
「なんだ、見返りを期待して感謝や気遣いを言葉にしろということか」
そう思われても、一向に構わない。
負の感情を撒き散らすことと違い、感謝や気遣いを周囲にばら撒くことで不幸になる人など、誰もいないのだから。
そして感謝や気遣いの見返りが返って来た時に本当に幸せなのは、実は自分自身である。
そうすればきっと、次は本心からそうしたいと思えるようになるはずだ。
「そんなこと、もちろん意識している」
そう思う人もいるだろうか。
確かに、飲食店や小売店で店員さんや店主さんに、小さな心遣いで応えることを意識している人は多いかも知れない。
しかし同じ想いを、同僚や上司、部下、お取引先、夫や妻に対しても向けている人はどれだけいるだろう。
感謝や気遣いには多くの場合、少なくない“見返り”があることを知っているにもかかわらずである。
断言しても良いが、感謝と気遣いは誰にでも無限に発行できる「疑似通貨」だ。
いつもありがとう
美味しかった
楽しかった
良い思い出になります
そんな言葉は、相手の心の中の「預金通帳」にどんどんと貯まっていく。
しかも、引き出しても無くならない好意として、ずっと印象に残り続ける。
それは時に、金銭的な見返りとして返ってくるかも知れないが、そんな程度の“資産”ではないことなど、きっと多くの人が知っているはずだ。
「感謝と気遣いは、誰にでも無限に発行できる疑似通貨」
ぜひそんな想いで、たくさんの人の心に「貯金」をしてほしいと願っている。
余談だが、沖縄出張で買った「ちんすこう詰め合わせ」をなじみのお蕎麦屋さんにお土産で持っていった時のこと。
蕎麦前の唐揚げは3つも増量され、お刺身5種盛り合わせは8種ものっけたすごいお皿が出てきてしまった。
さらに、帰り際、
「貰い物なんですが、私飲まないんです」
という“口実”で、純米大吟醸の高価な日本酒のお土産まで手渡されてしまう。
ちんすこう詰め合わせ、1,800円だったのに…なんか申しわけありません(泣)
次の訪問の時には、さらに店主に喜んでもらえるお土産を心を込めて、持っていこうと思っている。
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【プロフィール】
桃野泰徳
大学卒業後、大和證券に勤務。
中堅メーカーなどでCFOを歴任し独立。
主な著書
『なぜこんな人が上司なのか』(新潮新書)
『自衛隊の最高幹部はどのように選ばれるのか』(週刊東洋経済)
など
猫がツンデレと言う人は多いのですが、私はウサギのほうがツンデレだと思います。
機嫌がいいときは「撫でて撫でて~♪」とよってくるのに、機嫌が悪いと眺めているだけで足ダン(威嚇)してくるんです。
かわいいですよ~(^v^)
X(旧Twitter):@momono_tinect
fecebook:桃野泰徳
運営ブログ:日本国自衛隊データベース
Photo by:Miquel Parera
世の中には、なにかにつけ「適当にやっといて」と言う人がいる。
そのくせ、こっちが「こうかな」と考えて動いても、「いやそうじゃなくてさ」「こういうつもりだったんだけど」と後から文句をつけてくる。
みなさんも、「希望があるなら先に言えよ!」とイラついた経験があるんじゃないだろうか。
というわけで今回は、「適当にやっといて」という理不尽と対策について書いていきたい。
「適当にやっといて」という言葉の理不尽さを初めて経験したのは、記憶を遡ると、おそらく高校時代に焼肉屋でアルバイトしていたときだ。
わたしはキッチン担当で、初めて盛り合わせメニューの注文を受けた。
リーズナブルな大衆焼肉チェーン店なので、やや値段が張る盛り合わせ系のメニューを選ぶ人はかなり少ない。
キッチン横のマニュアル表を見て、書いてあるとおりの種類・グラムの肉を用意する。が、どう盛り合わせるべきなのかがわからない。メニューはアップできれいに撮ってるから参考にならないし。
というわけで、店長に聞いてみた。
「どう盛り付けたらいいですか? このお皿も使ったことないからよくわかんなくて」
「適当でいいよ!」
なるほど、じゃあとりあえず種類別にいい感じに横に並べていこう。あんまり時間がかかると肉が悪くなっちゃうからパパっとやって……。
8割ほど盛り付けたところで、様子を見に来た店長が「いやいや、そうじゃないだろ」と言いながら新しいお皿を取りだし、わたしが盛り付けた肉を並べなおしていく。
「肉を盛り合わせるっていったら、こうやってバラみたいにするのが普通だろ」
……じゃあなんで最初からそう言ってくれなかったんだよ! 知らねーよ!
大学生時代、居酒屋バイトでも似たようなことがあった。
大雨で閑古鳥が鳴く23時前、一組のお客様がご来店。新人バイトだったのでお客様をご案内したことがなく、バイトリーダーという名の先輩に「どうすればいいですか」と相談。
「適当に案内して」と言われたので、お客様に「どこでもいいですよ!」と言ったところ、厨房に近い小上がり席にするとのこと。
お客様が席に着いたのを見たバイトリーダーがしかめっ面でやってきて、「あそこに客がいたら厨房も他の小上がり席も掃除できないだろ!」とご立腹。
……いや、だからそういうのは言えって!! わかんないから聞いたのに「適当でいい」って言ったのそっちだろ!!
というのをオブラートに伝えたところ、「適当だからってどこでもいいわけじゃない」らしい。
「適当に」って結局のところ、「俺が望むものを察してその通りにしろ」ってこと?
こと細かく指示しろとまでは言わないが、ある程度「こういうものを望んでいる」と言ってくれればいいじゃないか。
こういった人たちは、いったいなぜ「適当でいい」と言うんだろう。
おそらく全員に共通しているのは、コミュニケーションを面倒くさがっていることだ。
「肉を盛り付けろと言ったらバラのように華やかにするだろう」
「お客様を席に通すなら、まずこの席に優先的に案内するだろう」
このように認識のすり合わせをせず、相手も自分と同じ基準で判断するだろう、という甘い見積もりで指示を出す。
「相手は自分と同じイメージを持っているはず」と思っているから、想定外の行動をされると、「なんでそんなことをするんだ」と理解ができない。
もしくは単純に、いろいろ説明するのが面倒くさいからとりあえずやらせて、後からダメ出しすればいいと思っている。
しかし当然ながら、言われた側としては「ノーヒントで正解にたどり着け」と無茶振りされているのと同じだし、後からダメ出しされたらイラッとする。困ったものだ。
ではどうするか。
こういう「コミュニケーションが雑な人」に対しては、「これでいいですか?」と一度確認すれば、経験上わりとうまくいく。
肉の盛り合わせなら「種類別に横に並べる感じでいいですか?」と聞けばいいし、お客様を席に案内するなら「51か61卓らへんにしますね」と言えばいい。
「どうしたらいいですか」と聞くから「適当に」と返ってくる。
こちらから「これでいいですか」とプランAを出せば、イエス/ノー、もしくはプランBが返ってくるのだ。
後からなにか言われても、「一度確認したとおりにやったので」と言い返すための保険にもなる。
コミュニケーションが雑な人に対しては、こっちが一言付け足せばだいたいうまくいく。
しかし大人になってから、「適当にやっといて」を使う人のなかでも、さらにタチが悪いタイプがいることを学んだ。
それは、「俺が求めているものを察するのがお前の仕事」というスタンスの人だ。
なんで俺が理解してもらう努力をしなきゃいけないんだ、お前が察するべきだろう。
俺の望みを理解できなかったお前が悪いから、俺が不機嫌になるのも当然。
お前がもっと努力をしていれば俺を満足させられたのに、使えないヤツめ。
こういう思考回路をしている。
以前とあるオフィスにお邪魔したとき、詳しい背景はわからないが、上司に注意を受けている若い部下がいた。
どうやら部下がで提出したプレゼンの資料が、上司のお気に召さなかったらしい。
「こんなんじゃなにも伝わらないだろ」
「どこを変えたらいいですか?」
「全体的にもっといい感じにさぁ」
「商品ロゴのカラーと色味を揃えたんですが、もうちょっと派手なほうがいいってことですか?」
「いやいや、それを考えるのがお前の仕事だろから」
「……はい、やってみます」
ざっくりとした上司の意見に対し、部下は具体的に「こうすればいいか」と聞きなおしている。それでもその質問に答えず、上司はあくまで「どうやったら俺が満足するか考えろ」と突き放す。
あんな上司の元で働きたくないなぁと思ったので、このやり取りは記憶に残っている。
いったいなぜ、ちゃんと指示してあげないのだろうか。
こういうタイプはきっと、相手を試しているのだ。
お前はもう3年も俺の下で働いている。俺がどういう資料を好むかわかっているはずだ。
資料をまとめるための知識・経験も与えた。それならもうできるだろう。
さぁ、俺を満足させる資料を作れるかな?
こんな具合に。
たとえば、恋人に「誕生日プレゼントなにがほしい?」と聞かれて、「なんでもいいよ(わたしのことが好きなら、なにを欲しいかわかるでしょ?)」と答える人と同じだ。
で、期待とはちがったプレゼントをもらったら、「わたしのことなにもわかってないじゃない!」「このブランドは嫌いって言ったの覚えてないの!?」「いつもシルバーのアクセをつけてるのにゴールドなんてありえない!」と怒り出す。
「わたしのことを理解しているかテスト」に不合格だった恋人はひどいヤツだ。わたしが怒るのも当然だし、相手は謝って一生懸命正解を探すべき。
こういう考えだから、「適当にやっておいて」を指示として受け取ると、ほぼ確実にコミュニケーションエラーが起こる。これは、「俺のことを理解してるかどうか」というテストなのだ。
テストをしているんだから、そりゃ「答えを教えてください」って言っても教えてくれないよな……。
ここで真意を汲み取って期待以上のものを用意できるのが有能なのかもしれないが、エスパーじゃないかぎりなかなかむずかしい。
こんな理不尽なテストをされた場合、どうするべきなのだろう。
経験上、「察するのがお前の仕事」派への対策はひとつ。
「後だしには対応できませんよ」だ。
自分なりに一生懸命やります。でも正しい答えを導き出せるかはわかりません。うまくいかなかったら、それはヒントをくれなかったあなたに責任がありますからね。後からどうこう言われたって知りませんよ、必要なことは今言ってください。
相手はテストをしているのだから、「問題が成立するように条件付けするのが出題者の義務だぞ」と伝えるわけだ。
面積を求める問題で、辺の長さや角度の情報がなく、ただ三角形の図形を渡されても困る。説明がないのなら、こっちが勝手に条件を付けて解くからな。
後から「実はこれ10cmなんだよ」って言われても知らん。問題文に書いてないほうが悪い。
こういうスタンスでいくしかない。
もちろんこれは、わたしがフリーランスだから言えることであって、組織のなかではむずかしいかもしれない。
期待の現れとして、「うまいことやれ」と任されることもあるだろう。
でも「俺が求めるものを察しろ」という人に対し、「説明するのがそっちの仕事」と言い返すのは、時には必要だと思う。
プレゼンの資料でいえば、
「自分の認識ではこの資料で十分だと思っているので、具体的な改善点を言っていただけないかぎり修正すべき場所がわかりません。ご指摘いただけますか」
という感じだろうか。
「いちいち指示しないとなにもできないのか」「ちょっと考えればわかるだろ」「甘えるな」なんて言われそうだが、「自分とあなたのイメージがちがうので考えてもわかりません、教えてください」としれっと言い返せばいい。
だってわかんないんだもの、しょーがないよ。
こと細かく指示を求めると、相手も面倒になって「んじゃこことここだけ直しとけ」と合格基準を提示してくれたりもするし。
「適当にやっといて」と言うのは、お互い価値観のすり合わせが済んでいる間柄、もしくはどんな結果になっても文句を言わない覚悟がある場合のみにしておくべきだ。
そうじゃないのに「適当にやっといて」と言う人に対しては説明を求め、それでもダメなら、「後だしには対応しません」と言う。
実際にやるのはなかなか勇気が必要だが、「具体的な指示がないからとりあえずこうしますが、後から訂正は受け付けません」と事前告知すると、案外具体的な指示が返ってきたりもする。
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【著者プロフィール】
名前:雨宮紫苑
91年生まれ、ドイツ在住のフリーライター。小説執筆&
ハロプロとアニメが好きだけど、
著書:『日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち』(新潮新書)
[amazonjs asin="4106107783" locale="JP" tmpl="Small" title="日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち (新潮新書)"]
ブログ:『雨宮の迷走ニュース』
Twitter:amamiya9901
Photo:Brett Jordan
もうかなり前の話だ。
ある会社で、「会社案内・パンフレットのリニューアルをする」と言うプロジェクトが持ち上がった。
社長は一人の人物をプロジェクトマネジャーとして任命し、予算を付け、
「後はよろしく」
と、仕事をまかせた。
ところが半年後、ようやく社長は気づいた。
全くプロジェクトが進んでいないことに。
「どうなっているのか」とプロジェクトマネジャーを問い詰めたところ、彼は外注に丸投げしたまま、何もしていなかった。
外注側も、仕様が固まらず、プロジェクトは完全にスタックしていた。
社長は彼に話を聞いたが、彼は「外注から返事が無くて」の一点張り。そこで、社長は彼に要求した。「資料を出せ」と。
ところが彼は「出せない」という。
何か隠しているのではないか、おかしいのでは、ということで、皆でメールのやり取りや資料などを調べると、実質、彼が事実上、「外注に依頼をし、あとは本当に何もしていない」ことが発覚した。
細かく調べていくと、彼は「次に何をしたらいい」が全くわかっていなかったし、スケジュールさえ引いていなかった。
外注からの「ここの仕様は?」「ここの文言は?」「商品説明は?」といった問い合わせにも、まともに答えていない。
「何をしたらいいか自分もわからない」ので、答えられなかったのだ。
気の毒に、彼は無能の烙印を押されてしまった。
*
「タスク管理」という技術がある。
端的に言うと、大きな仕事は小さく分けて処理しよう、と言う発想をもとに、「あいまいな状態の仕事を、明確に定義された小さな仕事に分割し、実行可能にする」技術だ。
この「小さく分けて処理」する技術は、ある意味人類の偉大な発明であり、大抵の難易度の高い仕事にこの技術を使うことができる。
数学の問題。
実験プロトコル。
プログラミングやシステム開発。
企業再生。
巨大な橋をかけること。
人間を遠い宇宙に送り込んだりすること。
これらはすべて「小さく分けて処理する技術」を礎にしている。
ゆえに、「タスク管理の技術」は、すべての社会人にとって、必須とは言わないまでも、
「身につけておくとかなり得をする技術」だと言える。
特に、高度な知識労働には不可欠だと言っても良い。
上のプロジェクトマネジャーは、当時の状況から、「タスクを切って、仕事を管理する」能力を持っていなかったため、仕事をスタックさせてしまったとわかったので、その後、彼の後任に、若手の女性が任命された。
彼よりもさらに若く、経験不足が懸念されたが、他にやる人がおらず、「任せるしかない」となった。
すると、誰に教わったわけでもないのに、彼女は易々とプロジェクトを進行させ、3か月でリニューアルの仕事をこなしてしまった。
経験や年齢によらず「優秀な人は、教わらなくてもできるのだな」と、皆感心した。
しかし私は不思議だった。
「タスクを切って、仕事を進める能力」とは一体何なのだろうか。
これほど大きな差があり、「できる人には難なくできる」のに、「できない人には全くできない」のはなぜなのか。
*
実は、この能力はIQといった指標で測定される「認知能力」に強く依存する。
人によって差が出やすい、知的活動だ。
ノーベル経済学賞を受賞した、ダニエル・カーネマンはこの能力を「実行制御」と呼ぶことを紹介し、取り上げている。
システム2に備わっている決定的な能力は、いわゆる「タスク設定」ができることである。すなわち、慣れていない作業を指示されたとき、それに応じられるよう記憶をプログラムすることができる。
たとえば、「このページに出てくるfの文字をすべて数えなさい」と言われたとしよう。これは、あなたが前に一度もやったことのないタスクであり、自然に思いつく類いのものでもないが、システム2はちゃんとやってのける。この作業をうまくこなせるよう注意力をセットするのにも、実行するのにも、努力が必要だ。しかし何度もやれば必ず上達する。
心理学では、このようにタスク設定を導入し完了するプロセスを「実行制御(executivecontrol)」と呼ぶ。そして神経科学は、主に脳のどの領域が実行機能を司るのかをすでに突き止めている。そのうち一部の領域は、対立や矛盾を解決するときに活動する。このほかは前頭前野と呼ばれる、他の霊長類に比べてヒトでよく発達した領域で、こちらは知能を必要とする活動に関わっている
[amazonjs asin="B00ARDNMEQ" locale="JP" tmpl="Small" title="ファスト&スロー (上)"]
実行制御はまた、「人と他の霊長類」でも大きく差のある能力であり、知能が高い動物ほど、曖昧な仕事を、「注意深く分ける」ことに長けている。
AI研究で知られる、東大の松尾豊は、学習の根幹は「分ける」行為であるという。
うまく「分ける」ことができれば、認識や判断が可能になるし、理解も進む。
[amazonjs asin="B00UAAK07S" locale="JP" tmpl="Small" title="人工知能は人間を超えるか (角川EPUB選書)"]
戦略コンサルティング会社のマッキンゼーは、「MECE」(もれなくダブりなく分ける)ことを整理の基本的な概念としているが、これも大きくて曖昧な概念を理解し、処理しやすくするためだ。
[amazonjs asin="B00978ZQOG" locale="JP" tmpl="Small" title="ロジカル・シンキング Best solution"]
プロジェクト管理のグローバル・スタンダードであるPMBOKは、WBS(ワーク・ブレークダウン・ストラクチャー)と言う概念を使って、プロジェクトを分割し、進捗管理を行うことを標準としている。
[amazonjs asin="B0BRCTG2Y8" locale="JP" tmpl="Small" title="プロジェクトマネジメント知識体系ガイド(PMBOKガイド)第7版+プロジェクトマネジメント標準: PMI日本支部 監訳"]
4Cや4Pなど、世の中にある数多くのフレームワークは、「分け方の概念」を提供し、理解を早く進めるために用いられる。
NHKの小学生向けの番組「テキシコー」は、「分解・組み合わせ・一般化・抽象化・シミュレーション」をプログラミング的思考という枠組みで括っている。
「分けるのがうまい」のは、それだけで大した才能なのだ。
*
つい先日にも、私の知人が「中小企業向けのタスク管理ツール」について、感想を求めてきた。
彼は「タスク管理ツールは、実行力が弱い中小企業にこそ役立つ」と言うのだ。
しかし、「実行制御」の能力がレアである以上、タスク管理の本質はツールの有無ではない。
どんなツールを使おうと、「タスクをちゃんと切れる人」が少ないのだ。
多くの人がうまくタスクを切れない
↓
タスクを切れる管理者に負荷が集中する
↓
タスク管理が機能しない
↓
タスク管理ソフトも使われない
↓
タスク管理の試みそのものがとん挫する
という流れになる。
「じゃ、ちゃんとやってね」
という段階に来ると、残念ながら多くの組織が挫折をしてしまう。
松尾豊氏が指摘するように、「分ける能力」は、「理解する能力」と同値だ。
であれば、それなりの経験と、知的水準をもつ人間にしか、「タスクを切る」ことは困難なのかもしれない。
言い換えれば、タスクを切れる人は、知識労働に向いていることのの証でもある。
冒頭で紹介した会社は、プロジェクトマネジャーの任命を完全に間違えていた。
それは会社側に責任がある。
しかし同時に「タスクを切る」ことは実は特殊な能力を要求され、だれでも簡単にできる仕事ではない、ということを、もう少し我々は認識すべきかもしれない。
「簡単にできるだろう」と、思って、不適切な人に仕事を与えてしまった、上の会社のような悲劇を防ぐために。
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【著者プロフィール】
安達裕哉
生成AI活用支援のワークワンダースCEO(https://workwonders.jp)|元Deloitteのコンサルタント|オウンドメディア支援のティネクト代表(http://tinect.jp)|著書「頭のいい人が話す前に考えていること」55万部(https://amzn.to/49Tivyi)|
◯Twitter:安達裕哉
◯Facebook:安達裕哉
◯note:(生成AI時代の「ライターとマーケティング」の、実践的教科書)
[amazonjs asin="4478116695" locale="JP" tmpl="Small" title="頭のいい人が話す前に考えていること"]
このごろいくつかキャッシュレスの話題をネットで見かけた。
飲食店などが、キャッシュレス決済の手数料の高さに困っている、という話である。おれはそういう商売に携わったことがないのでわからないが、なるほど高そうだ。
とはいえ、この問題で小売店に同情する声というのはあまりない。ほとんどないといってもいいかもしれない。
「だったら現金オンリーにすればいいのでは?」という声が多い。「なじみの店、応援したい店では現金払いにしたい」という声もあるが、あまり多いとは言えない。
むしろ、オダギリジョーのCM(オダギリジョーの店に大口のお客さんがきそうになるが、キャッシュレス決済ができないことによって機会損失する……テレビをまったく見ない人向けの解説)のように、「じゃあいいですー」ってなるよ、という人が多い。現金まったく持ち歩かないよ、という人もいる。
おれは、どうなのか。おれはつねに現金を持ち歩く。
昭和の発想で「年齢×千円」の四万円くらいの現金を持ち歩いている。このくらいあったら、なにかあったときの一時しのぎにはなるだろう。なにかってなんだかわからないが。
とはいえ、おれのこのごろの決済の99%くらい(体感)はキャッシュレスだ。明確に現金を支払っているのは、毎月の医者の窓口だけで、処方薬局でもキャッシュレスだ。
正直な話、おれはここまで自分がキャッシュレス決済に染まるとは思っていなかった。出始めのころは「QRコード決済なんて、だれが使うんだろう?」と思っていた。おれが使っている。
キャッシュレス決済が、ここまで便利なものだと、だれが予想しただろうか。いや、予想していたやつがいるから今があるのだが。
今は過渡期かもしれないし、まあ人類いつでも過渡期なのかもしれないが、ほぼ完全に現金時代から、キャッシュレス右肩上がりの今に至る、体感のことを記録しておきたい。おれはインターネットがない時代に育ったが、今はインターネットがあたりまえの時代になっている。ほかにもいろいろあるだろう。そのうちの一つとして。
現金。紙幣、貨幣。昭和の子供にとって、お金といえば現ナマであった。おれの母はむかし銀行員で、一日の終りに一円足りないとなったら、みんなで残業して床を這いつくばって探した、なんて話を聞いて育った。
貨幣、コイン。これを書いていて思い出したが、おれは一時期、外国の紙幣やコインを集めるのが趣味だった。べつにそういう店に行くのではなく、毎月カタログが送られてきて、気に入ったものを選ぶ通販だった。おれはカネが好きだった。一番好きなのは日本円だったが。
だが、現金というのもいい思い出ばかりではない。実家が破綻して一家離散となってしばらく、おれも働かざるを得なくなった。ただ、おれは銀行口座というものを持っていなかったので、現金をもらっていた。
現金を、安いアパートに保管する。泥棒も避けて通るような貧しいアパートだが、それでも全財産に近い現金を置いておくというのは、ちょっと不安なものだった。かといって全額持ち歩くというも不安なことである。
そしておれは銀行に、口座を作った。銀行がお金を預かってくれる。これはすばらしい。「なぜ自分のお金をおろすのに手数料がかかるのか」と言う人もいるが、おれにとってはとんでもない話で、「おれのお金を守ってくれてありがとうございます。手数料くらい払います」という立場である。
とはいえ、ATMでお金をおろす、という行為も……ほとんどしていない。それが2024年の今だ。本当に、最後にお金をおろしたのはいつだっけ?
キャッシュレス決済。昔のことを思い出していて、Suicaよりまえのそういうものを思い出した。テレホンカードである。公衆電話でしか使えないとはいえ、あれも立派なキャッシュレスとは呼べないだろうか。テレホンカードで買い物ができるようになっていれば、クレジットカードを除いて、世界でも最先端のキャッシュレス決済社会が到来していたのか?
と、「一般社団法人キャッシュレス推進協議会」という、キャッシュレスを推進していそうなサイトに「キャッシュレス年表」というものがあった。
おお、ちゃんと1982年にテレホンカードとある。あれもキャッシュレスだったか。あ、オレンジカードなんてのもあったな。あと、イオカード。存在を忘れていた。どちらももう、過去のものだ。
まったく知らない若者もたくさんいることだろう。テレホンカードなんて、あのころ高値のついたカード(そういう側面もあったのです)は、今もマニアの間でやりとりされているのだろうか。安くなったのか、さらにレアで高くなっているのか。よくわからない。
で、このやっぱり大きいのは2001年のSuica登場だろうか。若い人よ、Suicaより昔、われわれがどうやって電車に乗っていたか知っているだろうか。紙の切符を買って、改札には改札鋏を持った駅員さんがいて、パチン、パチンと……って、おれの記憶でもこれはギリギリだ。ギリギリ記憶がある。そうだ、そのあとスタンプになった。スタンプになって、自動改札になった。もちろんSuicaなんて使えない。磁気の切符を、入れる。これは今も残っているか。定期券もなんかペランペランのやつになったな。
ま、電車の昔話ではない。お金の昔話をしたいのだ。Suicaの登場だ。
年表によると、Suicaの店舗利用開始は2004年だ。登場から三年くらいあったんだな。二十年前。もう、そんなに経つのか。
最初からいろんなコンビニで使えたんだっけ? こういうときはWikipediaを見てみるのに越したことはない。
ああ、最初はNEWDAYSだったんだ。Suica、二十年経った今でも、完璧なキャッシュレスの形態の一つだ。財布やカードケースに入れっぱなしでも、ピッとやると決済が終わっている。簡単で、速い。あ、FeliCaとか言ったほうが正確なのかもしれないが、あくまで一消費者の立場なので、Suica言います。
というわけで、おれはSuicaというものが非常に便利な代物で、これはもう便利なので、便利だなあと思っていた。おれはiPhoneを早い時期から使っていたので、おサイフケータイのことはよく知らない。とにかく、Suicaいいよなって思っていた。
思っていたところに、QRコード決済なるものが出てくるという。最初に感じたのは、「は、アホか? レジでケータイ立ち上げてQRコード表示させて、それをバーコードで読んでもらう? え、自分で金額入力して店員さんに確認してもらうなんてパターンもあるの? なにそれ、Suicaがあるのに必要あるの?」であった。
無論、消費者側なので機器の導入費や手数料など、店側の事情なんてわかりゃしなかった。ただ、SuicaからQRコード決済へって、退化でしかないって感じた。Suicaから一歩遅れた中国でやってるシステムを導入するの、みたいな。
あらためて言うが、一消費者、利用者の考えである。店側の負担というものは、まず考えない。レジが便利になるかどうか、それだけだ。
しかしね、なんだろね、毎日通うコンビニのレジの決済システム変わったんよな。QRコード決済とか可能な、なんかいろいろ支払いできるようになるレジ。そこでおれは最初、クレジットカードを使うようになった。カード挿して、ピコーン、ピコーンいって決済。簡単だ。
と、そのまえに、おれが20年通っているスーパーの変化について語らなくてはならない。
おれの行くスーパーは野菜が安く現金決済だった。おれおれの算数能力を超えて、お釣り計算ができるようになっていた。末尾を合わせるどころではなく、もっとアクロバティックな支払いだ。おれがおれの算数力がここまで高まったのを感じたことがなかった。
そのスーパーが、いきなりキャッシュレスに対応した。クレジットカードとSuicaとQUICPay。クレジットカードでは暗証番号やサインが必要そうだ。Suicaはコンビニと本来の交通機関用に使っていて、毎週のスーパーに使うにはやや面倒だ。そこでQUICPay。iPhoneを使う。たまにブブーとなって、やり直しになることもあるが、だいたいすんなりいく。あの、頭の中でお釣りの計算をしていたのはなんだったのか?
というわけで、おれは20年通う食品スーパーでQUICPayを常に使うようになった。スーパーが負担する手数料なんてものは考えもしない。こんなに楽な決済を手放したくはない。
まわりを見てみると、やはりキャッスレス決済の人のほうが7:3……いや、6:4くらいで多いだろうか。そういう実感がある。おれは一つのスーパーにしか行かないので、ほかのところは知らない。
で、QR決済。これだ。おれは昼にコンビニを利用する。二店舗ある。一店舗はPONTAポイントを貯めたいので、クレジットカード払いをしている。VISAタッチ。Suicaと同じ便利さ。PONTAのバーコードを読み取ってもらわなきゃいけないので、いちいち財布から出す必要はあるが、大した手間ではない。
もう一つのコンビニ。こちらでおれが何を使っているか。最初はQUICPayを使っていたが、なんか気づいたら楽天Payを使うようになっていた。
おれは最初に作ることができたクレジットカードが楽天カードで、楽天には恩義があると思っている。楽天ポイントをうっすらと貯めるようにしている。となると、楽天Payがいい。たぶん。
で、これがべつにそんなに手間でもない。「Suicaに比べて遅れている!」とか思っていたのもどこへやら。iPhoneのFace IDがマスク着用対応になったのも大きかった。端末見て、アプリ立ち上げて、レジでは「バーコード決済」のボタンを押すだけ。店員さんが商品をピッ、ピッとやっているついでにピッで決済終わり。慣れてしまうとこれも楽だ。
少なくとも、現金払いの面倒くささを思い出すと、これはもう戻れないよな、となる。財布のなかの布陣(お札が何枚、何円硬貨が何枚……)を確認して、お釣りが膨大にならんように調整して……。超、面倒くさい。考えられない。そういうレベル。
というわけで、子供のころからずーっと現金でものを買ってきた人間も、中年になってすっかり現金でものを買うことがなくなった。
生活のなかの行動、毎日のように行う行動に、大変化が起きた。歴史的な話だ。とはいえ、それはSuicaからひっそりはじまり、現金との併用から、気づいたらほとんどキャッシュレスだ。
先に書いたが、おれが現金払いをしているのは毎月通う医者の窓口だけだ。あ、理髪店も現金オンリーか。あと、街角でビッグイシュー買うときくらい。ただ、ビッグイシューは医者に行くときに出会うか出会わないかなので、二ヶ月に一度くらいだ。
あらためて言うに、これは人間生活のなかの大きな変化だ。まだ過渡期かもしれないが、今後よほどのことがない限り現金払いの方向へ戻っていくことはないだろう。
店舗にかかる負担というものはあるし、問題があるかもしれない。「店のために現金で払おう」という人もいていい。というかおれも三年に一度の旅行でどこか料理店に入ったりしたときは現金を使う。
ただ、もう、普段のコンビニやスーパーではもうグッバイだ。最後にATMを使ったのがいつか思い出せない。おれは昭和の人間なので年齢×千円くらいの現金を持ち歩いている。ただ、このあいだ女の人と東京に遊びに行ったとき、二人とも財布を忘れる、状況でちょっと緊張したりしたが、なんということはなかった。
まあ、なんかスーパーのレジがトラブルになって「今日は現金とクレジットカードだけでーす!」ってなった日とかもあったので、現金持ち歩かないでいいや、という気にはならない。iPhone落とすかもしれないし。
というわけで、もうキャッシュレス化は避けられない、というのが一消費者、利用者の感覚だ。たぶん、国もそうしたがっている。どうしてそうしたがっているのか、たとえば脱税対策だとかそういうものもあるだろうが、とにかくこれは便利だ。
人間は便利に弱い。「便利さを追い求めるばかりがよいものではない」とか言ってみるのもいいだろうが、かつて人間が手に入れた便利さを手放したことがあったろうか。
え、人間を奴隷として扱っていたやつは、そっちのほうが便利だった? ええと、じゃあ、「技術的な便利さ」にしようか。
そう考えると、やがてはさらなるキャッシュレス、生体認証のレジなし無人店舗に進むのだろうか。実験店舗ができたり撤退したりしているようだが、さて。
生体認証による一元管理。携帯端末もクレジットカードも、もちろん現金もいらない。免許証もパスポートもマイナンバーカードもいらない。そんな未来はくるのだろうか。
そこまで生きているかどうかはかなり不透明だ。ただ、技術的にはできるような気がする。
一方で、技術的でない部分で反対も大きそうだ。どこまで人間は管理されるのか? おれはといえば、そんなんなったらまっさきに便利さのために身体にチップいれるだろうけどな。あなたはどうだろうか?
以上。
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【著者プロフィール】
著者名:黄金頭
横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。
趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。
双極性障害II型。
ブログ:関内関外日記
Twitter:黄金頭
Photo by :Jonas Leupe
「うわぁ、すごいなぁ。蛇が蛇を丸呑みしてるよ。蛇って共食いするんだな」
感心するような呆れるような、どうにも形容しがたい感慨を覚えて、私はただぼうっとパソコンの画面を見つめた。
視線の先にあるのは、「ダーウィンが来た!」や「ナショナルジオグラフィック」の動画ではない。
ライフワークというより、もはや惰性で観察している子宮系スピリチュアル教祖のブログだ。
四柱推命をもじって子宮推命と銘打ったインチキ占いで、不特定多数の犠牲者から金を巻き上げてきた蛇顔の女が今、大富豪を自称する蛇男に飲まれようとしている。
つまり、私が眺めている蛇の食事風景とは、詐欺師が詐欺師を喰っている光景なのである。
見た限り、その蛇男は大蛇ではなかった。詐欺師としては、どう見ても小物でしかない。
しかし、その程度の蛇に丸呑みされてしまうということは、女の方はさらに小さかったということか。彼女は子宮系スピリチュアルを看板に掲げた中では、成功した部類に入っていた教祖だったというのに。
子宮系スピリチュアルなんて所詮はバカの宗教なのだが、それにしたってこれはない。
「いくら何でもコレに引っかかるのか?」
と、残念すぎて頭痛がする。
人間は追い込まれると思考回路がショートするが、この教祖はどうやら脳内の回線が切れまくってしまったようだ。
今なら「紛争地域で活動しているアメリカ人医師」や「アラブの石油王」を名乗る国際ロマンス詐欺にも簡単に引っかかるのではないだろうか。
もっとも引っかかったとして、彼女から搾り取れるお金はもう残っていないのだけど。
なぜならそのスピリチュアル教祖は今、破産どころか破滅しようとしているのだから。
なぜ破滅まぎわなのか、経緯を説明しよう。
彼女は師匠と崇める子宮系スピリチュアルの開祖「子宮委員長はる」が、長崎の壱岐島へ移住したことに感化され、自分も後を追うため総額2億円もの大金かけて、壱岐島に豪邸を建てようと考えた。
その豪邸建設計画はコロナ前である2019年に始まり、物件そのものは昨年完成したのだが、現在その豪邸は宙に浮いている。
施工を請け負った工務店への支払いが完了せず、家の鍵を渡してもらえずにいるためだ。
なぜそのような事態に陥ったのかというと、そもそも彼女には家を建てるお金がなかったからである。
彼女は土地と家を買うにあたり、預貯金などの資産を持っていなかったため、最初は銀行で金を借りようとした。だが、どこの世界に資産なし、定職なしの零細占い師に住宅ローンを組ませる金融機関があるというのか。
当然ながら門前払いされたのだが、あきらめきれない彼女は考えをめぐらせ、「バンカーを募る」と言って、子宮系スピリチュアルの仲間や自身の信者たちから直接金を借りたのだ。
「自分にお金を預けてくれたら、建てた豪邸に好きなだけ滞在していい」という条件をつけて。
当初は1億の予算を組んでいたが、家のデザインや建材にこだわっているうちに世界的なエネルギー価格と資材の高騰が始まって、建設費用はふくれ上がっていった。
そこへコロナが襲い、経済活動が停滞したことでスピリチュアル女子たちも貧困化。思うように集金ができなくなっていく。
状況が厳しさを増していく中、あとに引けない彼女は必死に商材を売り、バンカーを募り、クラファンも活用して金をかき集めたが、なにぶん計画から物件の完成までに時間がかかり過ぎてしまった。
彼女に金を貸していたバンカーたちからは離反者が続出し、返金請求が相次ぐようになったのだ。
その結果、金は集めても集めても返金対応で右から左に消えて行き、いつまで経っても工務店への支払いができないまま、せっかくの豪邸は風通しもされず塩漬けとなっている。
しかし、希望がない訳ではなかった。
支払うべき残金が500万円というところで事態が硬直し、東京での生活も立ち行かなくなったところへ、ようやく子宮委員長から手が差し伸べられたのだ。
と言っても、単純にお金を貸してくれる訳ではなかった。
「金は出さないが、住む場所がないなら自分が持っている物件に滞在してもいいし、荷物もこちらで預かっておく。集金にも協力するので、とりあえず壱岐島へ来るといい」
という申し出であった。金銭の援助ではなくても、八方ふさがりの彼女にはありがたい。さっそく子宮委員長を頼って壱岐島へ渡り、新生活をスタートさせた。しかし、二人の仲が険悪になるのにほとんど時間はかからなかった。
なぜなら、スピリチュアル教祖は基本的に自己愛性人格障害なのだから。二人ともその例に漏れないため、良好な関係など築けるはずがなかったのである。
そこへ彗星のごとく現れたのが、件の蛇男という訳だ。
ここで、蛇男が自称する経歴を簡単に紹介しよう。
彼は自称:大富豪で、本名と顔は非公開。最近は「弁財天」を名乗っているが、かつてはAyuという名で活動していたようだ。
Ayuが過去にモザイク入りで出演した動画によると、彼は世界トップクラスのファンドマネージャーで、誰もが知る世界のスーパーセレブたちの資産運用をしているという。
彼がファンドマネージャーになったのは、大学卒業後で23歳か24歳の頃。
師匠はウォーレン・バフェットとジョージ・ソロス。彼らの元で研修し、資産運用の手法を直に学んだ。
彼らの弟子をしていた頃には、師匠の命令でポンド(イギリスの通貨)やバーツ(タイの通貨)に攻撃をしかけたそうだ。
彼が就職したプライベートバンクは、ドイツのフランクフルトに本店を置き、スイスのチューリッヒで顧客の資産を運用している。
ファンドマネージャーとして新人時代はまだ日本のバブルが終わっておらず、担当した顧客の資産は日本株で運用していたそう。しかも取引は最低でも10億ユーロ(だいたい1000億円だそう)から。
新人時代の年収は、20〜30億円程度。仕掛けた株は2〜3ヶ月で手仕舞いするので、働いているのはその期間のみ。残りの9ヶ月は世界中を旅して、遊んで暮らすそうだ。
これまでの最高年収は68億円で、それを25歳の時に達成したと豪語する。
ほうほう...。
私はウォーレン・バフェットやジョージ・ソロスの伝記を読んだことがあるけれど、彼らが東洋人の弟子を取っていたとは初耳だ。
さらに、彼がウォーレン・バフェットとジョージ・ソロスの弟子をしていた頃に手伝ったというポンド危機とアジア通貨危機は、時代の設定がおかしくはないだろうか?
それらの危機は、確かにジョージ・ソロスをはじめとしたヘッジファンドが仕掛け、世界を震撼させた。私も当時のニュースを覚えているが、ポンド危機が起こったのは1992年で、アジア通貨危機は1997年だ。
もしポンド危機とアジア通貨危機を研修中に手伝ったと言うなら、就職後5年以上は彼らの弟子として研修していたことになり、24歳や25歳ではファンドマネージャーとしてデビューできていない計算になる。
まだファンドを任されていない研修中に最高年収を叩き出したとは、これいかに?
しかも、新人時代は日本株がバブルだったそうだが、日本のバブルは1991年に終わっている。
さらに、新人時代からいきなり10億ユーロを任されたとも言っているが、ユーロが流通を開始したのは2002年である。つまり、日本のバブルが終わっていない時代であるなら、ユーロはまだ存在していない通貨なのだ。
日本のバブル期に、まだ存在していない通貨でどのように投資をしていたのか、ぜひ詳しい説明を聞いてみたい。
もしかすると、2,700万円のコンサル料を払えば教えてもらえるのかもしれない。
スピリチュアル教祖と知り合った蛇男は当初、2,700万円の個別コンサルを彼女に持ちかけている。
しかし、彼女の置かれた状況を知り、アプローチを変えることにしたのだろう。セミナーを主催させ、スピリチュアル教祖の仲間や信者たちから細かく集金することにしたようだ。
彼をゲストに迎えたセミナーの参加費用は、セミナーのみオンライン参加が最安値で、99,000円。
現地の会場参加で、150,000円。
セミナーに加えて懇親会の参加で、300,000円。
セミナーに加えて団体コンサルへの参加で、800,000円。
セミナー、少人数コンサル、懇親会への参加で1,000,000円
どれも法外な値段だし、断言するが中身などない。
彼は決して表に出てこない大富豪という触れ込みだが、本当に富豪であるなら、表社会に出てこないのは反社だからとしか考えられない。
しかし、その可能性は限りなく低いだろう。大富豪としての設定の作り込みが甘く、経済ヤクザにしてはあまりに頭が悪すぎる。
もし富豪でないのなら、本名と顔出しNGの理由は、前科があるからではないだろうか。
彼は活動名を頻繁に変えながら、これまでも詐欺を生業にして生きてきたに違いない。
蛇男はスピリチュアル教祖と各地を巡る一連のセミナーが終わったら、仕事のため外国へ戻るという。何のことはない、インチキがバレる前にさっさと姿をくらます魂胆なのだ。
セミナーやコンサルの受講者たちが金額に見合わない内容に失望し、怒り出したとしても、矢面に立つのは哀れなスピリチュアル教祖ひとり。
参加者から弁護士を通じて返金を求められた時、自称:大富豪の蛇男はとっくに姿を消しており、ラインもブロックされて連絡がつかなくなっているに違いない。
その時になって、やっと騙されていたことに気づいて青くなっても、もう遅い。
一巻の終わりである。
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【著者プロフィール】
マダムユキ
最高月間PV40万のブログ「Flat 9 〜マダムユキの部屋」管理人。
Twitter:@flat9_yuki
Photo by :Jan Kopřiva
「一緒に病院へ行ってくれないか」。
7年ほど音信不通だった兄から電話があったのは2013年5月17日だった。
総額で1000万を超す貸した金は返さない─、知人の弁護士を通じて整理した債務の返済は滞る─、紹介した会社は問題を起こしてクビになる─。
度重なる不義理から長く絶縁状態だったが、いつになく暗い語り口に嫌な予感がした。
兄は電話をしてくる数日前に、10年ほど連れ添った妻と離婚していた。類は友を呼ぶと言うが、2人はそろって無類のギャンブル好きだった。
夫婦は、東海地方の某温泉宿で、住み込みで働いて得た毎月の収入のほとんどを、パチンコと競艇につぎ込んでいた。
生活苦でケンカが絶えず、自身の体調も日々悪化していく悪循環の中で、兄は妻に離婚届を突き付けた。
そんな状況だったから、やむなく、一緒に病院に付いてきてもらう相手として、絶縁状態だった私を指名してきたのだと思う。
普段は人を笑わせる、陽気な性格だった兄が、深刻な口調で懇願してきたので、仕方なく病院に同行することにした。
待ち合わせ場所は、兄が暮らしていた静岡県東部に位置する、交通・観光拠点でもある某駅。そこに、軽く20万㎞は走っているポンコツ車に乗って、兄はやってきた。
右腕は思うように上がらず、ハンドルを支えるのがやっとの状態。顔色が悪く、全身やせ細り、頬もこけていた。明らかに異常な様子だった。
ポンコツ車で走ること数十分。静岡県内にあるガン治療の拠点病院にたどり着いた。紹介状を手に受付を済ませると、兄は各種の精密検査を受けた。
数時間後、兄と一緒に診察室に入ると、担当の医師はCTやMRIの画像を示しながら「原発性の肺がんです。外科手術はできない状況ですが、抗がん剤や放射線で治療していきましょう。今から入院手続きをしてください」と話した。
2人部屋の病室で入院の支度をしていると、私だけ医師に呼ばれた。再び診察室を訪ねると、医師は私の目を見据えて言った。
「お兄さんのがんは末期の状態で、リンパや脳にも転移しています。抗がん剤を使っても余命は1年、仮に抗がん剤治療をしなければ4カ月くらいかと思います。お兄さんと相談してみてください」。
病室に戻った私は、兄に「余命」のことは告げず、今後の治療方針について相談した。兄は「どんな治療でもやるから、とにかく、いつもの生活ができるようになりたいね」と話した。
とても余命のことなど言えない状況だった。”いつもの生活”とはパチンコ、競艇、麻雀……。ギャンブルが日常の中心にある生活だ。
兄から治療方針を相談された私は、がんに詳しい友人、知人に相談し、書籍やネットで情報を集めた。
当時、がんは治療しないのが最善、というような本も売れていて、迷いは尽きなかったが、結局、抗がん剤はやめ、放射線のみを行う治療方針に決めた。
当時の標準治療の指針に沿ったものだと思う。医師は余命を延ばす効果が期待できる抗がん剤治療を勧めてきたが、最終的にはこちらの希望を通す格好となった。
定期的に放射線治療を行い、終盤には脳に転移したがんをたたくため、ガンマナイフ(脳内の一点にガンマ線ビームを集中照射させる放射線治療)も照射した。
確実性がなく、苦しい状態が想像される抗がん剤治療を避け、放射線治療を選んだのも、”いつもの生活”をする時間をできるだけ確保するため。
抗がん剤をやらなければ「余命4カ月」という事実を知らない兄は、「元の生活に戻れる」という確かな希望を胸に、放射線治療に臨んでいた。
何せ、根っからのギャンブル好き。治療の合間に、タクシーを呼んでは、馴染みのパチンコ店に繰り出し、私には再三、旅打ち(公営ギャンブルを目的とした旅行)を要請してきた。
余命4カ月という状況に、主治医は兄の希望を優先してくれた。旅打ちに行く際は、万が一の事態に備え、私に「診療情報提供書」を持たせてくれた。
放射線治療を続ける間、一進一退はあっても、病状は確実に悪化していた。行けるうちに旅打ちに行かせよう。そう考え、まず6月、私の自家用車で静岡の浜名湖競艇、愛知の蒲郡競艇に旅打ちに出た。
その最初の旅打ちでは、まだ自力で歩くことはできた。だが、痛み止めを飲んではいても、時に激痛に襲われ、うずくまる場面もあった。
愛知県の某温泉宿では、黄疸が出始めていた兄が温泉につかる姿に、驚く客も少なくなかった。これが最後と思い、兄を温泉に入れたが、周囲のお客さんには悪いことをしたと思っている。
2度目の旅打ちは8月、行き先は大阪だった。新幹線で大阪に向かう車中では、寒さから毛布にくるまっていた。レンタカーで住之江競艇へ行き、特観席(有料席)に入ったが、予想に没頭し、レースを観戦する時だけ、目が輝き、背筋が伸びた。
とはいえ、寒気が収まらず、近くのドン・キホーテで厚手のジャンパーを購入し、はおらせたこともあった。それでも自分で歩き、3日間、新大阪駅近くのホテルから住之江競艇に通った。
最後の旅打ちとなったのは9月初旬。三重の津ボートに行った。もうその頃には自力で歩けず、車椅子だった。さすがに私だけでは厳しく、離婚した兄の元妻に同行してもらった。
レンタカー店でワンボックスカーを借り、高速で津へ向かった。病状はもう末期症状だったと思うが、なぜか行きの車中では調子が良く、パーキングでうまそうにタバコを吸っていた姿を思い出す。
津競艇でも特観席に入り、車椅子専用のシートへ。軍資金の10万円を握りしめ、鬼の形相で展示航走(レース直前の試走)をチェック。得意の2連単2点勝負で舟券を買い続けた。
10万の軍資金を溶かすと、ニヤリと笑い、軍資金の追加を懇願してきた。結局30万ほど負けたが、兄は満足げに津競艇を後にした。
この最後の旅打ちも3日間の日程だったが、初日の夜のホテル(津市内)で病状が急変。チェックインの手続きをするロビーにうずくまり、何とか移動した部屋では激痛と吐き気で苦しんでいた。
それでも「明日も(津競艇)行くぞ」と断固、旅打ち続行を宣言。翌日も這うようにレース場へ行き、勝負を続けたが、最後はマークシートも自分で塗れない状況だった。
病状は限界の様子で、医師と相談の結果、レンタカーで即、入院中の病院へ戻ることになった。病院に到着したのは午後8時半。元妻と病院の方々に兄をゆだね、私は翌日早朝からの仕事に備え、帰京した。
それから数日間は不思議と病状が安定していた。とはいえ、末期状態には変わらず、病院側の配慮で、特別室のような個室に移動させてもらった。兄は「たまたま部屋が空いたらしく、いい部屋を使わせてもらっているよ」とご機嫌だった。
ちょうど最後の旅打ちから戻った一週間後、ずっと付き添ってくれていた兄の元妻から訃報の電話が入った。
亡くなる前日まで、タクシーでパチンコ店通いを続けていたというのだから、驚きというか、あきれるばかり。その亡くなる前日に、兄から届いたメールの文面は「次は四国に旅打ちに行くぞ」だった。
驚いたのは、初めて病院に付き添った日から、ちょうど4カ月の9月17日が、兄の命日になったこと。もし抗がん剤治療を受けていれば、もっと生きることができたかもしれない。一方で、好きなパチンコ店通いや旅打ちを、どこまで実行できたか……。
詰まるところ、兄の末期状態のがん治療において、何が正解だったのかは分からない。ただ、激痛や吐き気に苦しみながらも、ギャンブルという生きがいを胸に、最後の4カ月を走り抜いたのは間違いない。
「ギャンブル療法」なんて言ったら、お叱りを受けるかもしれないが、人生の最後に、ギャンブルが生きる支えとなったのは事実。そんな人生の幕切れが、ひとつくらいあってもいいんじゃないか。私はそう思う。
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【著者プロフィール】
小鉄
某媒体で約30年、スポーツ、社会、芸能、公営競技など幅広く取材。
現在はフリーの執筆者として、全国を回りながら取材、執筆中。
趣味で公営競技の予想会も行っている。
Photo by:Susann Schuster
ウェルビーイングやコンパッションという言葉をよく聞くようになった。前者は「身体だけではなく、精神、社会面も含めた健康※1」、後者は「批判でなくあたたかい目と思いやりを向けること※2」だが、それぞれの発祥はご存知だろうか?
実はこの2つの概念は、米国の脳科学者達がダライ・ラマ14世とプロジェクトに取り組んだ時に生まれた一連の研究成果だ。
私はこのことを今秋参加したMIT Center for Systems Awarenessのワークショップで知った。ダライ・ラマ14世の影響力があったから、横文字でも我々日本人に馴染みやすいのか、と妙に納得したものだ。
今回は、このMIT Center for Systems Awarenessのワークショップに参加して気づいたことについてご紹介しよう。
MIT Center for Systems Awareness とは、MITにおいて、個人、他者、社会と自然がそれぞれ繋がり、その関係性と愛情を通じて、若い人も巻き込みつつ教育改革を推進するためのセンターである。そんなMIT Center for Systems AwarenessのFoundations1のワークショップ(全4日間)は、世界的なベストセラー『学習する組織』の著者であり、MITのSociety for Organizational Learningを主催するPeter Senge教授、そしてMette Miriam Boell教授(生物学者)、Gustav Boll氏が交代で講義する新しい形態がとられた。
ワークシップの冒頭で、Humboldt(北カリフォルニアの郡の一つ。サンフランシスコから北360kmに位置)を管轄する行政官であり、ワークショップの卒業生でもある方が、このHumboldtという場所がNative Americanにとって大切な場所であり、現在も多くの部族と共生していることに触れていた。
ここでMetteが、「社会は大きく変わったが、人間の脳は未だに人がコミュニティで祭祀生活をしていた時からそんなに進化していない」「だから、ZoomやTeamsで分刻みに次から次にミーティングを梯子すると疲れてしまう」と話していた。Peterは「だからこそ世界のNative Peopleは開会に当たり儀式を行う。例えば、ラグビーのニュージーランド代表であるオールブラックスが試合前に披露することでも知られるHakaも、もとは一つの儀式だ」と応じ、あたかも、日本でいう祝詞のような開会儀式であった。
研修参加者は、教育者や行政者を中心に90名超。その中に聴覚障害の方々(多くは聾学校の教員)も14名参加されており、その方々のための手話通訳は7名も参加されていた。なお、日本人の参加者はスタートアップで働く若い女性と僕の2名で、欧州からも1名が参加していた。
このワークショップで学んだことを大きく分けると、システム思考の氷山モデル、リーダーシップの3要素、システム思考の問題解決の基礎についてだ。
Center for Systems Awarenessでは、現代は様々な政治システム、経済システム、教育システムが整合しなくなったため、様々な社会問題が起きていると見ている。例えば、戦争と難民の問題、大きな経済格差、海洋プラスチック、不登校、自殺。これらの問題に万能な処方箋はない。というのも、これらの問題には、制度的(ハード)な問題と同時に、これらのシステムを設計する人の思考(メンタルモデル)の問題が併存するからだ。
こうした背景から今回のワークショップでは、リーダーシップの3要素が、未来への意思、リフレクション、システム思考の理解に置かれていた。これは、一般的にMBAで教える外部環境と内的資源の理解から自社戦略を率いていくためのリーダーシップとは異なる考え方だ。
未来への意思について、基本的には、企業の枠組みを超えて、リーダー自身が深く内省することで「自身もシステムの一部であり、それゆえにシステム論の限界を理解している」「システム論の限界を理解しているからこそ、押しつけの数字や論理で示すのではなく、未来への意思を示して、それに繋がる人たちと未来の実現を有機的に広げていく」ように自身のメンタルモデルを変化させるということだった。
例えば、企業で中期経営計画(中計)を策定することは本来、実現すべき未来を考える営みと言える。しかしこの中計策定が、企業経営のための単なるシステムとして、作業のための作業、プロセスのためのプロセスになっているとしたら、そこから脱却して、心と血の通ったプロジェクトから徐々に変化を起こし、中計の実現を意思でもって近づけていくことを目指す、ということを示しているように捉えられた。
リフレクションとは内省を指すが、この要素についてはワークショップの中で実践できるようになっていた。受付時には参加者一人ずつにノートとペンが配られ、3人の講師からの問いに対して、心が動くことや、身心の状態についてそのノートに記述し、その後参加者と話して良い範囲で共有するようになっていたのだ。
最後にシステム思考について、この問題を解決するための基礎とは、直ぐに分かる絆創膏を貼るような対策ではなく、政策、メンタルモデルの双方に働きかけるような真因を探っていくことだ。ワークショップ中にPeterは、ビジネス上におけるシステム思考の罠に陥った例として以下のようなことを語っていました。
「製品競争力が落ちてきていたA社はマーケティング活動にお金を掛けると、絆創膏を貼るように短期的には売上が上げることが出来ることを経験的に知っていた。何度も危機からマーケティング投資で脱出してきたが、製品開発に真摯に取り組まなかったことから、ライバルであるB社やC社との製品力との間に大きな乖離が生まれ、ついには没落していった」「A社が、仮にB社やC社と同様かそれ以上に製品開発に力を入れていたら未来はどうなっていたろうか」
ワークショップのハイライトは、Gustavにより語られた子供達とのコンパッショネット・システムズの適用についての実演であった。
5歳児とは自身のその時の感情を表わす言葉カードを用いて、自身の状況を正確に捕まえる演習がされており、また高校生とは、環境問題について、単純な解決策の仮説を述べるのではなく、政策面とメンタルモデルに踏み込んだシステム思考的な発表があった。
高校生が自らの頭、手と足、心を用いて、システム思考を用いて問題解決をしようとしていることには、感動した。
しかしながら、ワークショップに参加した地元の中学生・高校生(14才、16才)らと話してショックを受けたのも事実だ。中学・高校の中で、Center for Systems Awarenessの活動に参加するのは少数派だという。我々大人が「短期的な」「絆創膏的な」対応しか見せないので、それらを見た子供達のメンタルモデルも、テストの点のような短期的なKPIに沿った成果を求めるというのだ。
PeterとMetteによれば、米国カリフォルニア州 Humboldt郡、また、カナダブリッティシュ・コロンビア州 Nisga地区では、Center for Systems Awarenessの活動を学校へ本格的に取り入れ、横展開する動きが見られるという。
僕のコラムのテーマである氣と経営の観点からいうと、未来への意思を示すことは氣そのものと言える。またPeterがワークショップの中で、意思を持った時の人の力を合気道の技で説明したことにはびっくりした。加えて、経営をハードなものとして捕えるのではなく、人のメンタルモデルも影響する有機体と見る視点は、氣と経営を結節させる。
日本にも、高齢化、過疎化、財政の圧迫、少子化、不登校、企業の弱体化、働く人の抱えるメンタル不調などの問題が山積みである。ついては、コンパッショネット・システムズを用いて、絆創膏的な対策ではなく、自らを変え、政策と人のメンタルモデルにご一緒に働きかけていこう。
※本コラムは筆者がワークショップ体験を基に記述したものであり、MIT Center for System Awarenessが監修したものではありません。筆者に責があります。
(執筆:中村 知哉)
【著者プロフィール】
日本で最も選ばれているビジネススクール、グロービス経営大学院(MBA)。
ヒト・モノ・カネをはじめ、テクノベートや経営・マネジメントなど、グロービスの現役・実務家教員がグロービス知見録に執筆したコンテンツを中心にお届けします。
Photo by:Robert Collins
<参考・引用文献>
※1 ウェルビーイング|グロービス経営大学院 MBA用語集より引用
※2 自分に自信が持てない人は「セルフ・コンパッション」を実践せよ/みんなの相談室Premium|グロービス学び放題より
私には昔から、少し頭のおかしな思考のクセがある。
「なぜこれをやってはいけないのか」
「なぜこうしなければいけないのか」
という疑問を持ったら、自分でそのタブーをやらかして失敗しないと気が済まないという、やっかいなひねくれだ。
考えても見てほしいのだが、例えばサッポロ一番塩ラーメンの作り方には、こんな説明が書いてある。
「スープは火を止めてから入れてください」
しかし火を止める前にスープを入れることで、どんな不都合があるというのか。
試してみたが、少なくとも味の違いなど、全くわからなかった。
しかし小学校の頃、ベルの工作授業で銅線を配られた時には本当に、エライことをやらかしてしまった。
「間違っても、この銅線を家のコンセントに差し込んだらアカンぞ(笑)」
そんな余計なことを説明した先生のせいで、私は自宅に帰るとさっそく、銅線の端をコンセントの両穴に突っ込んでしまう。
電池程度の電圧でも大音量がなるのなら、きっと家の100Vのコンセントに差し込んだら単純計算で80倍くらいの音量がなるのではないのか。
きっと近所迷惑だからやっちゃダメだぞとか、そんな意味だと理解してやらかしたのだが、結果はご想像通りである。
「ボンッ!!」
という音とともに白煙と火花が飛び散り、そのままひっくり返ってしまった。
なぜヒューズが飛ばなかったのか今思えば不思議だが、もう二度と、
「やってはいけません」
ということはやるまいと、心に誓った出来事になっている。
そんな中、私は今から10年ほど前に、「なぜラーメンは旨いのか」という謎をどうしても解き明かしたくなったことがある。
ラーメンの旨さは、どう考えてもおかしい。
そもそも、1,000円前後のB級グルメに大の大人が20~30分、店によっては1時間も並んで食べたいと思うなど、どう考えても異常である。
そして誰にも、お気に入りのラーメン屋の1つや2つがあるものだ。
着丼早々、熱々のスープをレンゲでひとすくいし口に運んだら、もうそれだけで幸せな気持ちになる。
コクがあるのにさらさらして、魚介や豚骨の旨味が口いっぱいに広がる。
我慢しきれずに麺をガバっとすくうと、口の中に広がるのは甘く艶めかしい小麦の香り。
鼻から抜ける余韻すらもったいないので、息を止めて貪り食うような恍惚感につつまれる。
私はこの異常な食べ物の謎を解き明かすべく、関西の精肉店や精肉卸を駆け回った。
一般のスーパーでは売っていない豚骨や鶏ガラ、もみじ(鶏の足)といった食材を買い集めるためである。
するとこの段階で、精肉店や精肉卸に“格”があることに気がつく。
商品を市場から仕入れ、右から左に流しているだけのような精肉店・精肉卸では、そもそもそういった部材を扱っていなかった。
切り分けられた肉を流通させているだけなので、当然である。
その一方で、自社で農場や養鶏場を持っているところは、そういった部材の扱いがあることはもちろん、肉や骨の扱いの難しさ、旨味についても知り尽くしていた。
「自作でラーメン作るって本気なんか、豚骨は相当固いぞ?」
「モミジはグロいぞ、本当に大丈夫か?」
食材そのものはタダ同然の価格で冷凍カチカチのものを頂いたのだが、素人に扱うのは難しいと説明される。
そういわれたら、ますますその謎に迫りたくなるのだが、初日にはもう、その言葉の意味がわかってしまった。
まず豚骨の固さ、マジでヤバイ。
旨味を煮出すためには骨を割らなければならないのだが、ビニールとタオルを敷いたアスファルトの上でハンバーでぶっ叩いても、全然割れない(泣)
5発くらい本気でぶん殴って、一部にヒビが入るというような感じだ。
さらにモミジのグロさも、本当になかなかである。
人間でいうかかとから先の部分だけが、大量に袋詰になっているのだ。
さらにその下処理として、黒ずんだ部分を切り落とせとか爪を切れとか説明されたのだが、これはもはやホラーである。
鶏の足が生々しく原型をとどめている中、まるでワンちゃんやウサちゃんの足の手入れをするかのように、爪を切り、黒ずんだ部分を食用バサミで切り落とすのである。
感情のスイッチを切らないと、とてもやってられない。
鶏ガラは、鳥の胴体の形を維持しているのでグロく思われるかも知れないが、こんなもの豚骨やモミジに比べて余裕である。
そして下処理を終えると、次は旨味の煮出しだ。
豚骨、モミジ、鶏ガラと試してみたが、鶏ガラについては私の技術では全く旨味を引き出せなかったので、ここでは割愛。
豚骨はテレビなどでよくある、「3日間煮出して旨味を抽出」というようなイメージは、まあある意味で当たっていることがわかった。
高温・高圧で炊き出さないと、素人ではとても旨味を引き出せなかったからだ。
次にモミジだが、これはとても微妙な食材である。
猛烈に旨味が出るが、高温・高圧で炊き続けると、すぐに旨味とトロミが飛んでしまう。
「今が一番美味しい」という煮出し時間、煮出し温度がものすごく繊細なのである。
高温・高圧は短めに掛けて、その後のスープの温度を維持する時間も、できるだけ短くしなければならない。
そしていうまでもないが、豚骨やモミジだけを煮出したら、旨いラーメンができるわけではない。
やはり最低限、グルタミン酸、イノシン酸などいろいろな旨味の組み合わせをしたいと思うと、昆布や煮干しといった食材の美味しさも抽出したい。
ところが昆布も煮干しも、沸騰するような温度でグツグツ煮たら台無しなのである。
昆布については、少なくとも10時間程度、冷塩水に浸けてゆっくりと旨味を引き出さないと、全く価値がない。
そして加熱するときは70~80度程度で昆布を掬わないと、エグみが出てトロミが失われてしまう。
煮干しも同様で、冷塩水に浸ける時間は昆布ほど必要ではないが、高温で炊き出すと苦みが出てしまい、やはり台無しになるのだ。
加えて、そうやって炊き出した豚骨、モミジ、昆布、煮干しの旨味を合わせ、加熱するのもすごく繊細な作業になる。
それぞれ、加熱時間や食材の旨さの最適温度が違うので、当然だ。
さらに玉ねぎの皮、トマトやナスのヘタ、ネギのシッポやニンジンの頭といったといったクズ野菜ももちろん入れる。
実はこういったクズ野菜は、自分で料理をしてみればわかるが、本当に旨味の宝庫である。
そのようにしてできたラーメンは、原材料費だけでも1杯1,500円くらいであっただろうか。
しかしながら、「なぜラーメンは旨いのか」という疑問は、完全に理解できた。
そろそろ結論をお伝えしたい。
これらの食材、そのままでは全く使えず、美味しく食べられないものばかりである。
というよりも、ラーメンにならなければ捨てられていたものばかりといってもいいだろう。
であればラーメンとは、
「誰も見向きもしない食材に手間暇をかけて、人の心を感動させる最高の一杯に仕上げる芸術」
と言ってもいいのではないだろうか。
そしてその時の、売り物になる一杯を作り上げる苦労たるや、並大抵ではない。
高級で珍奇な食材を買い集め、美味いものを作った気になっている浅薄な料理人など、足元にも及ばないだろう。
ラーメンという食べ物を心から愛し、旨味を引き出すことに怨念のような執念を持っている職人にしか、至高の一杯は作れないということだ。
換言すれば、ラーメンが異常な食べ物なのではなく、異常な職人にしか旨いラーメンを作ることなどできないということである。
そしてこの怨念のような思いは、会社経営にも通じる。
「うちの社員は出来損ないばかり」
「優秀な社員が集まれば、ウチももう少し業績が伸びるのに」
そんなことを考えた事がある経営者は、まさに素材自慢の浅薄な料理しか作れない3流の料理人ということである。
一人ひとりの社員の個性や能力に向き合い、豚骨やモミジから旨味を抽出し付加価値に変えるような経営者こそが、本物の一流の経営者だ。
ラーメン作りはまさに、埋もれていた食材をスター選手に変えてしまう究極の思想であることを思い知った、良い体験になった。
なお私が作ったラーメンは、あまり美味しくなかった(泣)
私にはまだまだ、人としても経営者としても、修行が必要なようである…。
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【プロフィール】
桃野泰徳
大学卒業後、大和證券に勤務。
中堅メーカーなどでCFOを歴任し独立。
主な著書
『なぜこんな人が上司なのか』(新潮新書)
『自衛隊の最高幹部はどのように選ばれるのか』(週刊東洋経済)
など
先日高速道路の第二走行車線を走っていたら、第一走行線から追い抜いていった車がいました。
すると目の前の車がパトランプを点け、すぐに追いかけていきました。
内側からの追い抜き、結構厳しく見てるんですね~。
X(旧Twitter):@momono_tinect
fecebook:桃野泰徳
運営ブログ:日本国自衛隊データベース
Photo by:Kristian Angelo
この記事で書きたいことは、大体以下のようなことです。
・先日朗読劇の脚本を書いて、妻が参加している朗読団体さんに演じていただくことになりました
・人狼ゲーム仕立ての、「登場キャラたちがVR空間で議論をして、メンバーに混じったAIを見つけ出す」というお話を書きました
・書いていて大変楽しかったのですが、普段の書き物とは全く違う学びや難しい点もありました
・「目で読む文章」と「耳で聴く文章」は全く別物で、いかに耳が滑らないようにするかの調整が大変でした
・舞台を見ている人にどうやって場面の状況やポイントを理解してもらうか、という点にも腐心しました
・演者さんに「どういう物語を演じたいか」という要件を聞き取りながらお話を組み立てていくのも面白い経験でした
・「ゼロから物語を作る」時の目隠しして迷路を歩くような感覚、大変だけど癖になりますね
・創作ものすっっっごく楽しいですよね
よろしくお願いします。
さて、書きたいことは最初に全部書いてしまったので、後はざっくばらんにいきましょう。
先日、朗読劇の脚本を書きました。
書き始めたのが去年の夏頃で、初稿が完成するのに二週間くらい、様々に手を入れながら「脚本」として完成を見たのが今年の春先くらいで、設定やら調整した分やら全部合計すると4万字くらいは書いたのでしょうか。
劇の上演がまだですので、脚本の細かい内容については触れられない部分もあるのですが、普段書いているものとはちょっと毛色が変わった分野であることもあり、面白い体験だったので文章にしておきたくなりました。
朗読劇というのは、文字通りお話を「朗読」という形で、舞台上で表現する劇形式です。もちろん色々と演出はあるのですが、舞台上で役者さんが動き回る演劇と異なり、基本的には「声」「会話」で物語の全てを表現することになります。
より「役者の声」「話し方」「声による表現」といったものに特化して楽しむ形式ではないかと思います。
小説は何度も書いているんですが、「脚本」というものを書いた経験はあまりありません。そんな私が何故脚本など書くことになったのかというと、きっかけは妻に「なんかいいSFない?」と相談されたことでした。
聞いてみると、妻が所属している朗読団体「草花木果」さんで、次読む朗読劇の題材を検討中、一部のメンバーから「SFがいいのではないか」という意見が出たと。
ただ、出演人数がそこそこ多いこともあり、ちょうどいいお話のスケールで、登場キャラクターも数が多い作品となると意外とタイトルが浮かばない。
私は海外SFが好きなので、ブラッドベリやらアシモフやらラファティやらラヴクラフトやら、中短編を色々あげてはみたのですが、どうもぴったり来る話がないと。ラヴクラフトの「アウトサイダー」なんかいいんじゃないかと思ったんですが、冷静に考えると朗読向きな要素がミリもない。
「じゃあ書いちゃおうか」となりました。
誰にでも「お話の引き出し」みたいなものはあると思っていて、つまりどんな物語ならスムーズに作れるのかという話なのですが、今回の条件として、「出演人数が10人弱とそこそこ多い」「舞台は近未来~未来のSF仕立て」というものがありました。
折角参加人数も多いし、朗読という形式なのだから会話を中心とした群像劇にしたい。謎解き要素、推理要素があるともっといい。
この条件で、私が一番広い引き出しを持ってるのって人狼だな、と。なにせ人狼なら、人狼BBS時代から何百回遊んだか分からないですし、どこがどういう風に面白いのかも大体分かっているつもりです。
「犯人探し」という構造は、多分会話劇とも相性が良い。
以前から「今以上にAIが発展した時、外部からAIかそうでないかを判定することって可能なんだろうか」というテーマに興味があって色々調べていたこともあり、「VR空間に紛れ込んだAIを、会話と議論だけで判別しなくてはいけない」という舞台立てを提案しました。
ざっくり企画書を書いて演者さんに相談してみたところ「面白そう!」「やってみたい!」という反応をいただいたので、じゃあということでざーっと書き上げ、様々調整して今に至る、という経緯なのです。
「人狼」ならではの仕組みに「AIは誰かを推理してもらう」という要素も持ち込めて、手前味噌ながら書いた側としては満足しているのですが、もちろん朗読劇というのは読んでもらわないと作品として完成しないので、演者さんによって脚本に命が吹き込まれるのを、私自身楽しみにしている次第です。
5/10,5/11に荻窪で上演予定なので、ご興味ある方は良かったら行ってみてください。
下記は予約用のフォームです。
https://www.quartet-online.net/ticket/28soukamokka1?m=0zgbjge
***
で。
今回書いたのが脚本、しかも朗読劇の脚本ということで、やはり普段の文章や小説とは違う点も様々にありました。以下はその辺の学びについて書いてみたいと思います。
まず、当たり前のことかも知れませんが、「情報を伝える時、耳は目よりもずっと滑りやすい」ということ。
朗読劇の一番の面白さ、かつ難しさというのは、「取り扱うのは文章でありながら、お客さんに伝えるチャンネルは基本「声」に限定されている」というところにあります。
声はリアルタイムで流れていくものなので、小説と違って「気になった一カ所に注目して前後をじっくり読む」ことは出来ないし、動画と違って「ちょっと戻して見直す」ということも出来ません。
また、当然のことながら同音異義語を字面から判別することも出来ないし、長い単語は聞き終わるまで判別出来ず、頭に入ってくるのにタイムラグが生じる。
つまり、ちょっと意識がそれて話を聞き逃したり、今の言葉よく分からなかったな、となった時のリカバリが難しい。
「目が滑る」ということは文章を読む上でも起こりますが、「耳が滑る」のはより起こりやすい上、それを取り戻すにも工夫が必要、ということになります。
SFというとどうしてもある程度「それっぽい」用語は出てきてしまいますし、単に「AI」という言葉であっても理解や認識は人それぞれです。
しかも、推理要素というとどうしても「それまでの情報をどう取り入れるか」という問題とも無縁ではいられず、「10分前に起きた会話をどう覚えておいてもらうか」といった課題も発生します。
この辺り、「どうすればお客さんになるべく耳を滑らせないで聞いてもらうか」について、物語展開とどう両立させたものか、妻にもアドバイスしてもらいながら、かなり色々苦心しました。
大きいところだと、
・「この台詞は何を言っているのか」ということについて、発言のなるべく早い段階で分かるようにした
・音声にした時まぎらわしい言葉がある単語は可能な限り避けた(類語辞典が大活躍した)
・情報として必ず抑えておいて欲しいポイントは何回かに分けて登場するようにした
・自分で声に出して読み、音声と意味がひっかかりそうな箇所を可能な限り潰した
辺りでしょうか。
普段のプレゼンだと、抑えて欲しいポイントは掲示資料に文章として書いておけばまあ済むっちゃ済むので、この辺甘えてしまっているところもあったなと、音声だけの舞台で考えるとだいぶ色々シビアに考えないといけないなあ、と思った次第なのです(もちろん、上記のような工夫とは別に、演者の皆様も様々に工夫をしてくださっています)
「今、キャラクターがどんな状況にいるのか」ということをどう説明するのか、みたいなポイントもありますよね。
演劇と違ってキャラクターが大きく動かないので、「地の文」でナレーションのように状況を説明する文章も時には必要となり、そこを既存のストーリーとどう折り合いをつけるか、というような調整も普段の文章とは違うテクニックが必要な部分でした。
また、「声の質」というところをキャラクターにどう盛り込むか、というのもやっていて面白かった点です。
当たり前ですが演者さんの声は演者さんごとにそれぞれ違いますし、得意な役どころ、得意な演技、上手い役回りというのも皆さん違います。
例えば、「この人は子どもの、かつ勢いがある声を出すのが得意」だとか、「この人は機械音声みたいな声をとても上手に出せる」とか、演者さんお一人おひとりの個性についてヒアリングしながら、それを活かした物語展開にどこまで寄せられるかな、というのは、普段文章を書いている時とは全く別の脳みそを使っているような感じで、非常に新鮮な気持ちで書き進められました。
当然演者さん個別に「演じたい内容」というのも変わってきますし、なんなら展開自体それで微妙に変わってきたりするので、細かくやりとりをさせていただいて、皆さんの希望も取り入れつつ全体の物語を調整する、みたいな試みをやってみまして、パズルをやっているような楽しさを味わえました。
やってみないと分からないもんだなあ、と思ったわけです。
これは別に脚本に限らず、創作全般にいえることかとは思うのですが、「書き終わった後」には「そう書いてあるのが当然」のように思える部分でも、ゼロから作ろうとすると滅茶苦茶大変なんですよね。
小説を読むのと書くのでは、舗装された道路を歩くのと原生林を切り開いてそこにアスファルトを敷き詰めるくらいの労力の差があると思います。
一方、考えた展開が上手いこと物語にハマった時とか、ストーリーを思った通りに着地させられた時には、本当に脳から出汁でも出てるのかと思えるくらいの気持ちよさと楽しさがあります。創作で徹夜しちゃう人がいるのもよく分かる楽しさです。
普段から小説や脚本を書いている方というのは本当にもの凄いなあと思いつつ、自分でも改めて「創作めちゃ面白いなー」と感じられたので、また折りを見て色々書いてみたいと考えた次第なのです。
今日書きたいことはそれくらいです。
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【著者プロフィール】
著者名:しんざき
SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。
レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。
ブログ:不倒城
Photo:Merch HÜSEY
これのヤバいところは本当に求められている「コミュ力」の正体が「上流階級の礼儀作法及び思考プロトコル」だという事。義務教育の延長で突破できるペーパーテストと違って学ぶには相応のコストが必要な代物で、貧困層はそのコストを捻出できない(更に言うと教育機関にもアクセスできない) https://t.co/GUGKICG6Uz
— クラウゼル(美少女) (@crauzel_law) April 14, 2024
先日、Xに上のような文章がポストされていた。前後の文脈を踏まえるなら、「AO入試や採用面接で問われるコミュニケーション能力とは、上流階級の礼儀作法と思考プロトコルのことである」といったニュアンスだろうか。
「いまどきは、良い大学・良い就職先に入ろうと思ったら、上流階級のように考え、上流階級のようにふるまえなければダメですよ」と言っているにも等しい。
「特定の階級の礼儀作法や思考作法が優遇され、そうでない階級のそれらが敬遠される」と書くと、なにやら階級差別的でよろしくないようにも思える。だが過去から現在までを眺めて思うに、これが社会の通常運転ではないだろうか。
世の中には、「コミュニケーション能力」という言葉からエスパー的な能力や魔術のたぐいを連想する人々がいる。
彼らの気持ちもわからなくはない。
というのも、他人の心の動きを読むのが異様にうまい人や好印象を与える所作がずば抜けている人は実在するからだ。世の中でコミュニケーション能力と呼ばれるもののいくらかは、属人性が高く、再現性が乏しい。
その一方で、属人性が低くて再現性が高いコミュニケーション能力もある。その代表格が礼儀作法だ。
たとえば「おはようございます」や「ありがとうございます」といった挨拶は、できて当たり前と思うかもしれないが、できなければかなり感じが悪くなってしまう。挨拶だけできても劇的に印象が良くなるわけではないが、コミュニケーション上の減点を回避するには身に付けておく必要がある。
挨拶以外にも色々ある。会食時のマナー。メールの書き方。LINEやメッセンジャーやDMの返信のしかたも礼儀作法に含まれるかもしれない。
どれもひとつひとつは小さなことでしかないが、礼儀作法も積もれば山となるわけで、長く付き合ってみた時の印象は礼儀作法の出来不出来によってかなり違ってくる。
いや、就職面接のようなファーストコンタクトの際もそれはそれで礼儀作法が効いてくる。お互いのことをあまり良く知らないからこそ、挨拶がきちんとしているか、悪印象を与えない言葉遣いや身のこなしができているかが印象を左右することになる。
だからだろう、礼儀作法でコミュニケーション上の減点を減らし、あわよくば加点を得たいというニーズはなくならない。
[amazonjs asin="B0848KGZT4" locale="JP" tmpl="Small" title="「育ちがいい人」だけが知っていること"]
令和に入ってからの礼儀作法書でとりわけ印象に残ったのは、この『「育ちがいい人」だけが知っていること』だ。この、売れまくった礼儀作法書は、まずタイトルで「育ちの良い人が知っていて、そうでない人が知らない礼儀作法の実在」を示し、それを提供すると宣言してみせる。で、実際に提供している。
ひとつひとつのtipsを知らなくてもコミュニケーションができないわけではないし、それだけで好人物が成り立っているわけでもない。だがもし、書かれているとおりに振舞えるならコミュニケーション上の減点を減らしやすく、加点を得やすくなるだろう。
ところで、さきほど挙げた『「育ちがいい人」だけが知っていること』は、「育ちがいい人が身に付けている礼儀作法はコミュニケーション上の加点になる」という前提で記されている。
だが厳密に考えるなら、いつもそうとは限らない。たとえば労働者階級の所作が好ましいとみなされているコミュニティ──たとえばイギリスでいえばパブのような──では上流階級っぽさやブルジョワ階級っぽさがコミュニケーション上の減点になることもある。イギリスほど顕著ではないにせよ、日本でもそういったコミュニティは存在するだろう。
とはいえ、良い収入や良いステータスを求めることを当然とみなす人にとって、礼儀作法とはより良い収入やより良いステータスの人が身に付けている礼儀作法、お近づきになりたい人に好印象を与えやすそうな礼儀作法にほかならない。
そういう上昇志向な人々が大半を占める社会は、必然的に高収入・高ステータスな人間の礼儀作法を模倣したがる社会になっていく。
こうした傾向はいつからあったのか?
礼儀作法と礼儀作法書の先駆け的存在は、少なくとも16世紀まで遡ることができる。ネーデルラントの神学者/哲学者としても名高いデジデリオ・エラスムスが上流階級の子女が読むという前提で記した礼儀作法書が、活版印刷の普及に乗ってヨーロッパ社会のベストセラーになっていったのだ。
[amazonjs asin="4931199321" locale="JP" tmpl="Small" title="エラスムス教育論"]
エラスムスの礼儀作法書は、このように日本語版も出版されている。異様なプレミアがついてしまっているので図書館で閲覧してみるのがおすすめだが、内容は簡潔で、今日では常識になっている記載も多い。
この礼儀作法書はもともと上流階級の子女のためにつくられたテキストブックだったが、それが上流階級の礼儀作法を身に付けたい中流階級たちに読まれ、模倣されていった。
つまりエラスムスの礼儀作法書も、育ちの良い人の礼儀作法を模倣したがる人に読まれていたわけで、そのことを思うと令和の『「育ちのいい人」だけが知っていること』は案外、礼儀作法書の原点に根ざしている。
エラスムスが書き残した礼儀作法書は、上流階級から中流階級の上澄みへ、さらに中流階級の裾野へと浸透していった。浸透すればするほど、広く知られれば知られるほど、その礼儀作法ではコミュニケーションの加点が得られにくくなり、せいぜい減点を防ぐ程度の効果しか得られなくなる。
そうしたわけで礼儀作法とそのテキストブックは時代を経るにつれて内容が細かくなっていった。今日目にする礼儀作法書は、その末裔であるとみて間違いない。
しかし、礼儀作法とそのテキストブックの出自がこうである以上、礼儀作法には上流階級志向がついてまわる。
今日において上流階級とは、ブルジョワ階級が相当するだろう。育ちの良いブルジョワ階級の子弟にプリインストールされている礼儀作法を、そうでない人々が積極的に模倣する──この繰り返しをとおして、社会はますますブルジョワ階級にとって都合の良いものへ・上昇志向を自明視するものへと変わっていく。
これは本当にどうしようもないことなのだけど、礼儀作法をありがたがり、模倣することをとおして、私たちはブルジョワ階級のブルジョワ階級によるブルジョワ階級のための社会をより堅固なものとし、その成立に加担しているとも言える。いや、もちろんブルジョワ階級中心の社会を成立させているのは礼儀作法だけでなく、資本主義や社会契約に基づいた諸制度などのほうが重要なのだが、礼儀作法もまた、ブルジョワ階級中心の社会を支える支柱のひとつだと言いたいわけだ。
こうしたことを振り返ったうえで、冒頭で紹介したXのポストを振り返ってみよう。
曰く: "本当に求められている「コミュ力」の正体が「上流階級の礼儀作法及び思考プロトコル」だという事。義務教育の延長で突破できるペーパーテストと違って学ぶには相応のコストが必要な代物で、貧困層はそのコストを捻出できない(更に言うと教育機関にもアクセスできない)"
エラスムス以来、礼儀作法が上流階級志向で、その模倣をとおして広がってきた歴史を振り返ると、このポストの内容にも納得せざるを得ない。
確かにそうなのだ──ブルジョワ階級の子女がごく当たり前に身に付けていることでも、そうでない人が身に付けるには骨が折れ、相応のコストが必要になる。そのコストが貧困層にとって一種のペイウォールとして機能することも想像しやすい。
ということは、礼儀作法の出来不出来によって面接試験の当否が左右される社会があるとしたら──いや、現に左右されているのだが──、その社会は特定の階級を贔屓し、そうでない階級を門前払いしがちな社会であると言わざるを得ないのである。
これは、日本でも日本以外の先進国でもしばしばみられる現象で、ほとんどの人が鵜呑みにしていることだが、本当にこれでいいのだろうか?
私はときどき、これって構造的な階級差別&依怙贔屓のシステムなんじゃないの? と思ってしまう。
とはいえ、すでにそういう社会構造になっている以上、疑問を感じたからといってどうにもならないし、私自身も礼儀作法に意識的である以上、その社会構造に加担していると指摘されればにべもない。
資本主義社会においてブルジョワ階級はいろいろな意味で模範的存在ではある。が、ひとりひとりが礼儀作法を重んじ、それをコミュニケーション能力の一部として駆使することをとおしても、ブルジョワ階級とそれを模範とする社会構造はますます強固になっていくのである。
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【プロフィール】
著者:熊代亨
精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。
通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イースト・プレス)など。
[amazonjs asin="B0CVNBNWJK" locale="JP" tmpl="Small" title="人間はどこまで家畜か 現代人の精神構造 (ハヤカワ新書)"]
twitter:@twit_shirokuma
ブログ:『シロクマの屑籠』
Photo:Resume Genius
つい先日の「解決法の「とっかかり」をなんとなく把握しておくことが大事だという話」を読んで、思い出したことがあるので、忘れないうちに、ここに言語化しておく。
*
初めて「人類の知識の膨大さ」に触れたのは、大学の研究室で、論文を読んで発表をするという、単純なタスクを与えられたときのことだった。
それまでは、論文1つを読んで、その発表をするなんて、とんでもなく簡単なことだと思っていた。
しかし予想は甘かった。
開始15分で、途方に暮れ、「これはとんでもなく時間がかかる作業だ」と気づいた。
というのも、一つの論文の内容を正確に把握し、その研究の意義を完全に理解しようとすると、その研究の背景となる論文や、先行研究を読まねばならない。
結局、1つの論文を発表するためには、その他に5つも10も、他の論文を読む羽目になる。
予想の5倍、10倍の時間がかかる作業を延々と繰り返し、ようやく発表にこぎつけることができたときには一種の達成感があったが、同時に別のことにも気づいた。
「あらゆる学問の分野に、このような知識の連鎖がある」と。
となれば、私が生涯の全時間を知識の獲得に充てたとしても、獲得できる知識は、全体のほんの一部であり、到底すべてを知ることはできない。
一昔前、The illustrated guide to a Ph.D.(博士号を絵で説明するよ)という記事があったが、「我々が知ることができるのはごくわずか」という事実をよく表している。
これはすでに、図書館に通えばいい、というレベルではまったくない。
博士号ですら、膨大な知識体系の中のごく僅かな一部である。
その事実に、私は圧倒された。
その後、学校を出て、コンサルティング会社に就職した。
しかし、学生時代と状況は変わらず、私は必要な知識の習得に追われた。
おそらく、コンサルタント同期の皆もそうだったと思う。
「経営戦略」
「コミュニケーション」
「システム開発」
「会計」
「法律」
様々な、覚えなければならない膨大な知識に触れるたびに、読まねばならない本が増えた。
とてもではないが、業務時間だけでは足りない。
しかも、当時の私はそれをすべて理解しなければならないと思っていたため、カバンに常に大量の本を入れていた。
友人の結婚式に出席するときですらそれを持ち歩いていたため、友人から「安達はノイローゼ」と言われた。
もちろん、そんなことをしても知識がすぐに身につくわけではない。
消化不良をおこして、ろくに理解もできないまま時間だけが過ぎていく。
私は完全に行き詰まった。
そこで私は、社内でも博識であった一人のコンサルタントに相談した。
「どうしても新しい知識を習得するのに時間がかかる。どうやって早く本を読んでいるのか。」と。
すると彼は意外にも「新しい知識を得るのに、あまり本は使わないよ」という。
そこで、私は尋ねた。
「ではどうやって、そのように博識になったのですか?」
「簡単だよ。交換したんだよ。」
意味がわからない、という顔をしている私に、彼は言った。
「いま、仕事でマネジメントの専門知識はそれなりに深くなってきてるよね。」
「はい。」
「その知識をタネにして、お客さんや先生、士業なんかの、専門家に聞けばいいんだよ。コンサルタントはみんなそうしてる。」
「どういうことでしょう?」
「なにか一つのことを極めると、その知識に「交換する価値」がでる。それを持って、他の専門家のところに聞きに行く。お客さんにはいろいろな専門家がいるから、その人達に頼る。」
「人に聞く、ってことですか?」
「いやいや、単純に「教えて下さい」だと、迷惑な人でしょ。苦労して習得した知識は、そんな簡単に教えてくれないよ。そうじゃなくて、自分も専門家として相手に接する。「困ったときには相談して」と言えるようにね。」
そうか。
そうだったのか、と私は思った。
今までは私は「必要な知識はすべて、勉強しないとダメ」と思っていた。
しかし、そうではない。
あるしきい値を超えると、もはや知識の膨大さに、個人が追いつけるレベルではなくなるのだ
その代わりに、「他人の知識」を利用できるようにならねばならない。
言い換えれば、人間は「誰がこれについて詳しい」と知っているだけでもよくなる。
この「知のネットワーク」を利用できることが、人類が圧倒的に他の動物に比べて優れている点である。
しかし「知のネットワーク」に入るには条件がある。
それは、自分も専門家としてネットワークに登録されなければならないこと。
なにか1つでも強みがあれば「知識のネットワーク」の中に入れる。そして、それなりの扱いを受けることができる。
最近流行りのNISA。
年始から投資をしていた人は、だいぶ資産が増えただろう。
しかし、投資には元手、つまりタネ銭がいる。
同じように、知識も「タネ知識」によって、アクセスできる知識が爆発的に増える。
それを元手に、「他人の持っている知識」にアクセスできるようになるからだ。
ポイントは「知識を自分で身につける必要がない」という点。
都度、検索エンジンのように、ネットワークにあたるだけでよいので、たくさん知識の交換に応じれば応じるほど、自分の扱える知恵が増殖していく。
それはお金がお金を生むようなものだ。
「こんなこと知らない?」
「●●さんが詳しいよ」
「そういえば、✕✕に困ってるんだけど」
「△△社がそんなことやってたなあ……」
「今度紹介しますよ」
「あ、では◇◇さん含めて、今度一席設けますよ」
といった具合に。
ただし前述した通り、単なる「教えてくん」はダメ。
「もらってばかりの人」は、ネットワークから徐々に排除されてしまう。
「知識のネットワーク」の中では、常に「お前は何を知ってるの?」が問われる。
そのために「交換価値の高い知識」は、常に更新をして、知識のネットワークを活用できるように準備しておかねばならない。
*
先輩のアドバイスを受けて、私はコンサルティング会社の中で、勉強会や読書会の機会を利用し、発表を積極的にするようにした。
先輩たちの「知のネットワーク」に早く入れるようになりたかったからだ。
また、機会があれば、雑誌への寄稿や本の執筆などを積極的に受けるようにした。
「知のネットワーク」への登録を維持するためには、日々の知識の更新が不可欠だからだ。
最近では「リスキリング」の名のもとに、学び直しが推奨されている。
ただし、それはあくまで「タネ知識」を育てるためのプロセスでしかなく、真の学び直しの価値は「知のネットワークへの登録」を目指すところにある。
学んだ知恵は、発信し「他の人が利用できるようにする」事ではじめて、有効に機能する。
そんなことを、先輩に教えてもらったことを思い出した。
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【著者プロフィール】
安達裕哉
生成AI活用支援のワークワンダースCEO(https://workwonders.jp)|元Deloitteのコンサルタント|オウンドメディア支援のティネクト代表(http://tinect.jp)|著書「頭のいい人が話す前に考えていること」55万部(https://amzn.to/49Tivyi)|
◯Twitter:安達裕哉
◯Facebook:安達裕哉
◯note:(生成AI時代の「ライターとマーケティング」の、実践的教科書)
[amazonjs asin="4478116695" locale="JP" tmpl="Small" title="頭のいい人が話す前に考えていること"]
これはもしかすると、身内すらも知らない秘密に、わたしだけが勘づいたのではないか。なぜなら、その場にいる全員が誰一人として、渦中の二人を観察していないからだ。
そして、もう二度と会うことも触れることも叶わない……そんな現実に直面したとき、こぼれ落ちる涙と共に見せた真実を、わたしは見逃さなかった。
常識を無視した生活を送っていると、ある日突然、右往左往しなければならない時がくる。その典型が「葬式」である。
いわゆる冠婚葬祭の場面では、日本人にとって最低限のマナーがあり、中でも葬式に関しては、非常識な振る舞いは絶対的にNGだ。
そんな常識を試される場に参上するにあたり、身なりから不祝儀袋の書き方、はたまた焼香の作法について、どれをとっても自信満々に遂行できるツワモノが、この世にどのくらい存在するのだろうか。
当然ながらわたしは、常識ある友人に教えを請うたりネット検索したりしながら、手探りで「葬式についてなんとなく理解しているヒト」を演じるのであった。
*
先日、若くしてこの世を去った友人の葬式に参列するべく、大慌てで喪服セットを引っ張り出したわたしは、不慣れな格好に苦戦しながらも葬儀場へと向かった。
それにしても、ここ最近の葬式は明らかに様変わりしている。
故人の年齢にもよるだろうが、友人の葬儀はとても華やかで明るいものだった。流れる音楽はシャレた洋楽で、彼女が好きなミュージシャンの曲が繰り返し流されており、思わず口ずさんでしまったり——。
そういえば過去の葬式で、アイドルやビジュアル系バンドのBGMが流れるという、既存の葬式の概念を打ち砕くような演出に驚かされたことがある。
ひと昔前(?)の常識である、神妙な面持ち、かつ、しめやかな雰囲気ではなく、大好きなものに囲まれて笑顔で送り出そう・・というのが今風なのだろう。
突然だが、亡くなった友人は美人だった。クールビューティーを代表するような清々しいオンナで、それこそヒマを弄ぶ要員のオトコがたくさんいた。
おまけに、ボーイフレンドたちは全員が見栄えのいい金持ちばかり。どうやったらあんなエース級のイケメンばかりを揃えられるのか、凡人にとっては不思議で仕方なかった。
「だって、一緒にご飯行くならカッコイイほうがいいでしょ?」
それはごもっともだが、いとも簡単に最強の戦闘態勢を整えることなど、一般的な顔面偏差値では至難の業。だが、ご尊顔を装備した彼女にとってはごく当たり前のことで、それをサラッと述べる潔さみたいなものが、わたしは大好きだった。
オトコに困るわけでもなく、仕事もプライベートも順風満帆だった彼女だが、少し前に癌が見つかった。そしてあっという間に全身を蝕み、気がつけば彼女をこの世から連れ去ってしまったのだ。
あまりにあっけなく居なくなってしまった友人を思うと、悲しみよりも先に信じられない気持ちが湧き上がり、ついこの間までバカ話で盛り上がっていたことが嘘のようである。
それでも、彼女の死が事実であることを裏付けるかのように、しばらくするとわたしの元へ告別式の通知が届いた。こうしてわたしは、友人と最後の別れをするべく葬儀場へと向かったのだ。
穏やかな表情で眠る友人は、まさに眠れる森の美女のオーロラ姫だった。姫を包み込むように敷き詰められたユリや薔薇の棺を囲んで、大勢の友人知人らが彼女と最後の時を過ごしている。
そういえば、彼女とわたしの共通の友人というのはほとんど存在しない。いつも二人で会っていたので当然といえば当然だが、こういう場で一人というのは、ちょっと気まずいような落ち着かない気分になる。
とはいえ、友人との別れのために訪れたのだから、他人と喋る必要はない。よって、自分の順番が回ってくるまで、式場の片隅で静かに待つことにした。
それにしても、これも最近の流れなのかは分からないが、カチッとした喪服姿は全体の半分くらいで、ややもすると「マナー違反!」と叩かれそうな服装の参列者も散見するなど、いい意味で拍子抜けしてしまった。
言われてみれば、告別式の通知に「堅苦しい格好ではなく、普段通りの姿で送り出してあげたい」というような文言があり、たしかに彼女らしい配慮だと思った。破天荒で天然キャラの友人ならば、言われるまでもなくラフな服装を好むだろうから。
そして意外だったのは、圧倒的に女性が多いことだ。一般的に友人・知人といえば同性が多いのは理解できるが、ボーイフレンドの人数もそれなりだったはずなので、ちょっと意外に感じたのである。(とはいえ、さすがに元カノの葬式には来ないか・・)
まぁ人それぞれの事情があるだろうから、その辺りは触れないでおこう・・と自己完結させようとしたところ、パンツスーツに身を包んだ一人の女性が現れた。その瞬間、彼女に見覚えのあるわたしは、頭をフル回転させて記憶を辿った。
(・・あ、友人と仲のよかった友達だ!)
いつだったか、友人がハワイへ行った時の写真に写っていたのがその人だった。
「気が合うだけでなく、信頼できる大切な友達」と、友人の口から聞いたことがある。——そうか、彼女も当然ながらお別れをしに来たわけだ。
長身で華奢な彼女の後ろ姿からは、顔など見ずとも悲痛な面持ちであることがうかがえる。そして棺に手をかけたまま、じっと友人を見下ろしていた。
仲のいい友がこの世を去る悲しみは、想像を絶するものだろう。しかも人生半ばの早すぎる旅立ちは、わたしですら信じられないわけで、それが親友ともなればなおさら——。
そんなこんなで故人との別れを惜しむ参列者たちが、続々と棺の周りに集まり、各々のやり方で言葉を交わしていた。もちろんわたしも、これまでの感謝を伝えると静かにその場を離れた。
そしていよいよ、出棺の時がやってきた。
遺族の手で棺をストレッチャーへと載せ替え、先導員の合図を待って火葬場へ移動・・というその時、あのスレンダーな女性が思わず棺に手を伸ばしたのだ。大粒の涙が頬を伝い、何度も何度も友人の名前を呟いている。
それを見た式場スタッフが、「危ないので下がってください」と制止するも、彼女は断固として引かなかった。
遺族ですら棺から離れているこの状況で、心中は察するがさすがにやり過ぎではなかろうか——。
そう思わせるほどの独断ぶりだが、半ば強引に引き離された彼女は、最後まで手を伸ばして棺に触れようとしていた。
そんな彼女の左手を見たわたしは、それこそ目が覚めるような衝撃を受けた。(あの指輪、見覚えがある・・・)
そう、彼女の薬指に光る指輪は、かつて友人が薬指につけていたものと同じだった。斬新なデザインゆえに、鮮明に記憶していたのだ。
「その指輪、かわいいね」
「でしょぉ〜、お気に入りなの」
そう言いながら左手を頭上に掲げて、嬉しそうに目を細める友人の横顔が脳裏をよぎる。
その瞬間、すべての謎が解けた——というか点と点が繋がった。モテモテの友人がなぜ結婚しなかったのか、そして、なぜこの女性がなりふり構わず棺にすがるのか・・思い返せば全て、得心がいくではないか。
つまり、彼女こそが「真のパートナー」だったのだ。
*
現世では無情にも引き裂かれた二人だったが、心は固く繋がっているはず。だからこそ、どうか来世では幸せに結ばれる運命であってほしい——。そう願わずにはいられなかった。
去り行く故人と、悲しみに暮れる彼女の背中を交互に眺めながら、そんなことを思っているのはわたしだけだろう。
(了)
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【著者プロフィール】
URABE(ウラベ)
ライター&社労士/ブラジリアン柔術茶帯/クレー射撃スキート
■Twitter https://twitter.com/uraberica
Photo:Michael Fousert
以前より、転勤制度は本人・配偶者の精神的な負担、キャリアへの影響、家族分離や子供の転校といった家庭への負担が大きいことが指摘されてきた。
ここでは、筆者が総合職共働き世帯を対象に実施したインタビュー調査[1]から明らかになった、以下の4つを取り上げたい。
これまであまり着目されていなかったものの、ワークライフバランスという観点だけではなく、日本が直面する少子化、労働力人口、経済成長にも関わるポイントである。
転勤により子供を作るタイミングを逸したケース、転勤が終わるまで子作りを先延ばしするケースがみられた。その結果、子供をまだ授かっていない、または長期に渡り不妊治療を継続しているケースもあった。これは少子化にも影響する大きな問題である。
また結婚式や住宅購入を決めたタイミングで転勤辞令を受けるケースもあり、個人のライフイベントに大きな影響を与えていた。
単身赴任を検討する世帯においては「転勤前後で家族で過ごす時間にどの程度変化があるのか」を検討材料にしていることがわかった。このケースでは特に男性側が長時間労働により日頃より帰宅時間が遅く、平日に家族で過ごす時間が短い実態があった。
そのため、転勤後に週末一時帰宅できるのであれば、転勤前後で家族時間に大きな変化はないと考え単身赴任の選択に至るケースがあった。
テレワークが普及し、働き方改革により残業時間が減少傾向にあることを考えると、以前より家庭での時間は増加していると考えられる。するとこのような単身赴任の選択は成立しづらくなり、社員と家族の葛藤は増す可能性が高い。
夫婦のいずれかに転勤が発生した際、当事者は配偶者のキャリアをできる限り尊重したいという気持ちを持っていることがわかった。
一方で、当事者・配偶者にかかわらず女性のみに見られた特徴として「キャリアのあきらめ」「夫のキャリア優先」といった点があり、転勤発生時に性別役割分担の志向が無意識に潜んでいる可能性が示された。
家族帯同を選択した世帯においては、転勤先が国内・海外かによらず、配偶者が仕事を辞めて帯同することで、転勤が発生しなかった場合の想定世帯年収より転勤後の世帯年収が下がることへの不満が示された。
転勤はこれを機に職位が上がったり手当が支給されたりすることで、本人の年収を上昇させる場合もある。しかし転勤により配偶者が被るキャリアブランクや再就職の難しさは、長期で見れば世帯年収に影響する可能性があり、日本の経済にも影響を与える課題である。
前半で説明したとおり、経済状況により転勤の目的は変化する。欧米諸国においても、契約変更と本人の同意を前提とした配置転換は行われており、経営上その必要性が存在する限り一定の転勤ニーズは今後も残るだろう。
一方で現状の課題を踏まえると、企業・社員双方にとって、そのあり方には更なる変化が期待される。
例えば、近年の転勤の目的として多くの企業は「人材育成」を挙げているが、転勤経験が転勤以外の異動と比べて能力開発面でプラスになったと認識している転勤経験者は38.5%に過ぎない[2]。
転勤経験は、通常の異動経験と比べ、賃金や昇進と関連する職業スキルに強い影響を与えるわけではないという研究結果もある[3]。
また、企業は人材育成を第一の目的とする一方で、転勤経験者本人は自身の転勤を「人材需給調整」ととらえており[4]、人材育成の意義が伝わっていないことも指摘されている。
企業側は配置転換が慣例的に行われていないか、転居を伴う配置転換が必要なのか、社員との事前コミュニケーションは十分かを再考することが期待される。
共働き世帯の増加に伴い様々なコンフリクトが生じる中で、近年、企業側も転勤施策の見直しを行っている。特に、全社的に定期的な転勤が多く行われてきた金融業界では制度変更が進みつつある。以下にその事例をまとめた。
新型コロナ以前の2019年にいち早く動き出したAIG損害保険では、新制度導入後、新卒応募が10倍に増加したという。
就職みらい研究所の調査によれば、就職活動をする学生が「希望の勤務地に就けるかどうか」を重視する傾向は年々高まっている[5]。
少子高齢化、長期雇用の前提が崩れつつある時代において、企業には働く人の意識や社会情勢、労働市場の変化をいち早く察知し、活用可能なテクノロジーを取り入れ、制度の見直しを図ることが期待される。
新卒一括採用や育成制度とも密接に絡む転勤施策の見直しは、決して容易ではない。
しかし、企業・社員双方の負担を減らすだけでなく、日本において企業が必要な人材を確保し存続していく上で待ったなしの状況といえるだろう。
(執筆:小山 はるか)
【著者プロフィール】
日本で最も選ばれているビジネススクール、グロービス経営大学院(MBA)。
ヒト・モノ・カネをはじめ、テクノベートや経営・マネジメントなど、グロービスの現役・実務家教員がグロービス知見録に執筆したコンテンツを中心にお届けします。
Photo by:Kenny Eliason
[1] 小山はるか(2021)「総合職共働き世帯における転勤発生時の意思決定プロセスとその影響」『日本労働研究雑誌 63 (727特別号)』,労働政策研究・研修機構
[2] 武石恵美子『キャリア開発論』中央経済社
[3] 佐野晋平・安井健悟・久米功一・鶴光太郎(2019)「転勤・異動と従業員のパフォーマンスの実証分析」独立行政法人経済産業研究所
[4] 松原光代(2017)「転勤が総合職の能力開発に与える効果」佐藤博樹・武石恵美子編『ダイバーシティ経営と人材活用 多様な働き方を支援する企業の取組み』
[5] 就職みらい研究所(2024)「特定の地域で働きたい学生が増えているのはなぜか?大学生の働きたい組織の特徴の研究レポート①」
この記事で書きたいことは、以下のような内容です。
・昔SEの先輩に、「技術の詳細に通じていなくても、「そういう技術、そういう解決法がある」ということを把握しているだけで十分役立つ」と教わりました
・エンジニアの能力を測る尺度の一つとして、「課題」「問題」に対するアプローチをどれだけ思いつけるか、というものがあると思います
・「こういうやり方があった筈だ」「こういうアプローチが出来る筈だ」ということがなんとなくでも分かっていれば、それをとっかかりに調べることが出来ます
・その「そういう解決法があるということはなんとなく分かる」という状態を広げる為に、基盤技術に関する知識が重要です
・これは、生成AIに色々聞けるようになった今でも変わらないというか、むしろ昔以上に「とっかかり」の重要性が増しているような気がします
・「引き出しを増やす」という視点での勉強と、それを活かす為の基礎の重要性を、新人さんにも伝えようとしています
・新入社員の方は無理せずがんばってください
以上です。よろしくお願いします。
さて、書きたいことは最初に全部書いてしまったので、後はざっくばらんにいきましょう。
以前から何度か書いていますが、しんざきはシステム関係の仕事をしています。元々の専門分野はDBで、PostgreSQLやMySQLやOracleやらをちょくちょく使ってました。
最近は自分でがっつりDB扱う機会はあまりないんですが、新しい技術が出てくるときゃっきゃ言いながら試したりはしてます。オンプレのOracle 23cいつGA来るんでしょうね?(Free版はもうある)
で、立場上新人さんを見ることもしばしばありまして、ちょこちょこ相談を受けたりもするんですが、先日新人さん向けのキャリア勉強会みたいなものが何回かありまして、そこに呼ばれて色々と話してきました。
その中で、「ChatGPTやCopilotのような生成AIが発展してきている中、エンジニアは知識をどう身に着けて、市場価値をどう高めていけばいいのか」というようなテーマが出ました。
市場価値っていうと大仰ですが、要は「AIが色々教えてくれるんだから、一人ひとりが知識を身に着ける必要ってあんまりないんじゃないの?」的な話ですね。
まあ、新人さんの立場的には「今やってる勉強意味あんの?」とは聞きにくいと思うんで、だいぶオブラートに包まれたタイトルになった感じです。
私の個人的な回答は、一言で言うと「そんなこと無いでしょ」なんですけど、その時話した内容が新人さんにも割と好評だったので、文章でも書いておきたくなりました。
ということで、以下はその勉強会で話したことの要約です。
エンジニアの能力とか市場価値って、もちろん色んな尺度や評価軸がありまして、人によって、組織によって、何を重視するかは変わってきます。
例えばコーディングスキル、フレームワークやアーキテクチャに関する知識の広さや深さ、論理的思考力。ビジネス要件をシステムに取り込むことが上手いかどうかが重要な尺度になることもあれば、コミュニケーション能力とチームビルディング能力が重視される場面もあるでしょう。
ただ、割とどんな組織、どんな場面でも重視される能力の一つとして、「問題や課題を解決しようとする時、その為のアプローチをどれだけ手広く考えられるか」というものがあるような気がしています。
問題解決能力って言っちゃうと、もうちょっと話が広くなるんですが。
当たり前のことですが、何かの問題を解決する時、その回答は一通りだとは限りません。
大抵の場合、問題解決の為にはいくつもアプローチがありますし、その時々によって適した解決法は変わってきます。
そして、問題の解決の為には「問題の掘り下げ」「原因分析」「ゴール設定」「解決する為のアプローチの案出」といった作業が必要になります。
例示なので単純な話にしちゃいますが、「手入力での作業が滅茶苦茶煩雑で、作業者が疲弊してるのでなんとかしたい」というシンプルな問題であっても、根本原因がどこにあるのかはかなり色々掘り下げないと分かりませんし、その先のルートも様々です。
「Excelちょっと変えれば済むやん」という話もあれば、「そもそもその業務必要なんだっけ?」という話も、「業務システムのパッケージ入れましょう」「がっつりRPAで自動化しましょう」という話もあるでしょう。
金銭コスト、時間的コスト、作業の難易度、期待効果、人的リソース。ちょっと場面が変われば所与の条件も全く変わるので、「どのルートを選ぶべきか」というのは常に選択困難です。とれる手段が多ければ多い程、最適なルートを選べる可能性は高くなります。
実際の仕事の場面では、話は上の例より五段階くらい複雑で、解決ルートも分岐どころかラビリントスの大迷宮みたいになってることがもっぱらなので、「色んな解決法を案出して、それを比較・分析して適切な道筋を見つけ出す能力」というのは仕事をする上で滅茶苦茶重要、これが出来ればそうそう食いっぱぐれることはない、という話が、まず一つ前提としてあるわけなんです。
***
で。
別に生成AI時代に限らず昔からそうなんですが、何かの問題や課題について解決法を考える時って、必ず「とっかかり」が必要になります。
将来どうなるかまではちょっと分かりませんが、まだ現時点の生成AIは「簡単な質問でなんでも解決してくれる魔法の箱」ではありません。
生成AIから知識を引き出すことはいくらでも出来るんですが、その為には多少のノウハウと検証能力が必要で、「なんも分からん」という状態から解決のルートを見出すのは案外そこまで簡単でもないんですね。
誤情報に惑わされないようちゃんと検証する必要があるのはもちろんですが、ざっくりした質問にはやっぱり一般的な情報しか返ってこなくって、多少は具体的にポイントを絞った質問をしないと、有用な情報が得られないわけなんです。
知識を得るための、入口となる知識が必要。この点は、Googleなどの検索エンジンで頑張って検索していた頃と根っこの部分はあまり変わっていないような気がしますし、一朝一夕で変わるような問題でもないような気がします。
で、この「ポイントを絞る」為には何が重要かというと、「なんとなくだけど、こういう解決法があったような気がする」「こういうアプローチがありそうな気がする」という、
「ぼんやりしていてもいいから、取り敢えず「そういうことが出来そう」という理解だけは持っておくこと」
なんですよね。
もちろん技術知識自体に精通していればそれに越したことはないけれど、「こういうことが多分出来る筈」ということだけわかっていれば、それこそ検索エンジンやら生成AIやらを使って詳細を調べることが出来ます。
必要が生じれば、調べて身に着けることは出来る。けれど、そもそも「そういうアプローチがある」ということを知らなければ、その知識にたどり着くことさえ出来ない。
例えばの話、プロセスの排他制御という概念自体を知らない人がセマフォの使い方にたどり着くまでには、それなりのハードルがありますよね。
この話、私自身、私が働いていた会社の先輩から教わったことなんですが、その先輩は「知識の背表紙だけ最低限覚えておく」と言っていました。プログラミングが分かる人なら、「知識へのポインタだけ抑えておく」でも通じるでしょうか。
ちなみに、こういう「知識へのポインタ」を増やす為に、一番有用なのって「基盤技術に関する知識を身に着けること」じゃないかと思っています。
それこそOSI参照モデルとか、コンピュータ・アーキテクチャとか、OSがどうやってファイルからデータを読みだしているのかとか、基本情報技術者試験に出てきそうなやつ。
どんな技術、どんなプロダクトでも、一番根っこになる部分って共通だから、技術の根本の部分を辿ると「根っこに戻って他のルートを推測する」ということ、言ってみれば「知識のポインタとポインタを繋ぐ」ことが出来るんですよね。
「これが出来るってことは、多分こういうことも出来るだろ」って類推が効くようになる。推測出来れば、調べられる。だから、ある一つの知識を身に着けることが、直接「その知識以外の背表紙」を把握することにもつながる。
生成AI時代になってもその重要さは何の変わりもなく、いやもしかすると昔以上に重要になっているかも知れない、全然不要になんてなってませんよと、そんな話をしたわけです。
だから私は、「何で直接使うわけでもない基盤技術についての勉強なんてしなくちゃいけないの?」と聞かれたら、「問題解決へのとっかかりを増やすのが楽になるから、だと思います」と答えます。一見役立たない知識のように思えても、案外技術者としてのバックボーンになるものですよ、と。
そんな話だったわけです。
そういえば世間ではもう新入社員さんが仕事をし始める時期になりまして、知らなかった世界に目を回していらっしゃる頃かとも思い、老婆心ながら上記のようなお話が少しでも参考になればと考える次第です。皆さん無理せず頑張ってください。
今日書きたいことはそれくらいです。
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【著者プロフィール】
著者名:しんざき
SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。
レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。
ブログ:不倒城
Photo:Mimi Thian
2023年の夏、ある小さな記事がアイロニー好きなイタリア人たちを愉しませた。
ニュースは、ヴェネツィアのゴンドラの定員数を巡る事件を扱ったものだ。
世界的な社会問題となっている「肥満」が、観光業に少なからぬ影響を与えていることを示唆する記事だったのだが、本題のほかにもイタリア的な問題を内包したニュースであった。
さまざまな意味でイタリア人を苦笑させたニュースを紹介する。
2020年、コロナ禍の真っただ中にあったヴェネツィアは観光客の激減し、その影響で海水の透明度が増したことが大きなニュースになっていた。
一方で2020年7月、ある規則が改正されていたのである。それは、ヴェネツィア市がゴンドラに乗船できる人数を、6人から5人へと減らすという内容だった。
表向きの理由は観光客の「肥満化」である。
ゴンドラの漕ぎ手は「ゴンドリエーレ」と呼ばれ、気風のよさがウリの職業だ。彼らに言わせると、「ここ数年の観光客は太り過ぎだ。ま、パスタやハンバーガーが美味しすぎるからしょうがないな」ということになる。
観光客の肥満化があまりに顕著で、安全性を考慮すれば、笑ってばかりいられる状況ではなくなったということらしい。
ヴェネツィア市はゴンドラの定員を6人から5人に減らしただけではなく、「ダ・パラダ」と呼ばれるタクシー代わりの船の定員も、14人から12人に変更されたのである。
具体的な例を挙げるとこうなる。
36人のグループがヴェネツィアを旅行中にゴンドラに乗ろうと思ったら、以前は6艘のゴンドラで足りていたものが、現在は8艘必要なのだ。ゴンドラ1艘のレンタルは80ユーロであるから、36人グループの負担は160ユーロ増えるという計算になる。
一部のジャーナリストは、これは「肥満」を口実にした実質的な「大幅値上げ」ではないかと皮肉っている。というのも、ヴェネツィアのゴンドリエーレの多くは世襲制なのだ。
ゴンドリエーレの息子ならば理論的なペーパーテストもなく、ゴンドラに乗って漕ぐだけの簡易的な実施試験でパスできるといわれている。
代々ゴンドリエーレを務める家族にとってはそれだけでもメリットがあるのに、定員数が減らされたことで、棚からぼたもち式に収入が増えることになったのだ。
とはいえ、この問題は長らく話題にもならなかった。脚光を浴びたのは、ある事件が発端となった。
事件の全容はこうである。
一組の夫婦が、学齢期の4人の子どもを連れ一家6人で1艘のゴンドラに乗ろうとしたところ、定員数超過を理由に乗船を拒否された。
夫婦は、子どもの1人に障害があること、また4人の子どもはまだ幼く、家族6人で乗船しても大人5人の平均体重の合計には満たないことを主張した。
ジャーナリストによれば、ここで実にイタリア的な問題が発生する。
ゴンドリエーレは規則を盾に、あくまで5人以上の乗船は認められないと言い張った。一方、一家に雇われていたツアーガイドは、子どもの年齢と家族の合計体重、また障害を持つ子の存在を配慮して特例を認めろと迫る。
そこで、警察が呼ばれた。イタリアの警察はいつものごとくである。「我々にはわからないし興味もない。水上警察に言ったらどうだ」というわけだ。
呼ばれた水上警察は事情を聴き、「この場合は6人乗船でかまわない」と許可を出した。
おさまらないのはゴンドリエーレたちだ。「特例」がこうも簡単に認められるのならば、規則を変えた意味がないというわけである。
実際、水上警察から口頭で伝えられるだけの「許可」なのだから、航行中に別の警察に規則違反を示唆されたら、ゴンドリエーレは罰金を払わなくてはならなくなる。
というわけで、水上警察の介入も役には立たず、ゴンドリエーレの主張によってこの家族は1艘のゴンドラに乗船することを諦めざるを得なくなった。
ヴェネツィア市の先導でこうした特例のための公式な書類等が用意されないかぎり、今後も同様の問題が起こる可能性はある。
2023年4月現在、ヴェネツィアのゴンドラに関する規則(REGOLAMENTO COMUNALE PER IL SERVIZIO PUBBLICO DI GONDOLA)には、それに触れた項目は加筆されていない。
このニュースはまず、肥満した観光客の近況が笑いを誘った。イタリアの肥満率も、決して低くはないからである。それと同時に、さまざまな問題の対処が後手後手に回り、かつ責任の所在をたらいまわしにするという、変わらぬイタリアの姿を浮き彫りにしたのだった。
イタリア人が自嘲したという意味での、苦い笑いも誘ったのである。
ところで「実質的な値上げの口実」とされた観光客の肥満化は、なにもヴェネツィアだけの問題ではない。肥満が規則を変えた前例があるのである。
それが、ギリシアのサントリーニ島のロバ観光だ。ロバの背に揺られて520段の石畳の階段をのぼり、エーゲ海を望むパノラマを眺める。これは長年にわたり、サントリーニ島で人気の観光スタイルだった。
ところが2019年、ニコス・ゾスゾス市長は「自分の足で頂上まで登ろう」というキャンペーンを実施した。その理由が、観光客の肥満化によるロバの疲弊と健康被害であったのだ。
夏ならば気温が30度を超えるサントリーに島で、観光客を乗せるロバは1日4~5往復するのが常である。ところが観光客が太り過ぎた結果、ロバの疲労度が増大しただけではなく、脊椎等に問題が発生するケースまで増えたのだ。
ギリシア地域開発・食糧省は、ロバに乗ることができるのは体重が100キロ未満、あるいはロバの全体重の5分の1未満の人のみと規則を定めたのである。
どうしても坂道を歩きたくない人はケーブルカーの仕様を推奨するなど、観光客の肥満化によるロバへの弊害を阻止するべくさまざまな試みが行われている。
地中海世界は食事が美味しく、ついつい食べ過ぎてしまうことは否めない。ロバに乗って観光をしたいのならば健全な体重を保持し、食べ過ぎない用心も必要というわけだ。
日本肥満学会のデータを参考にすると、人口1億人当たりの肥満率が男女とも60%を越えているアメリカやメキシコに比べれば、日本は40%にも満たない。(※1)
観光地で肥満を理由に楽しめないという状況は生まれにくいといえる。
とはいえ、肥満の要因の最たるものは「食生活」にあることでは変わりはない。(※1)旅行先のおいしい食事も節度を持って食べ、よく歩き、見聞し、心身共によき刺激を得ることがよき旅行の基本ではないだろうか。
【著者プロフィール】
cucciola
ライター。
歴史と美術のオタク。
通常は書籍をお供にイタリアの山に引きこもり中。
<引用元>
※1.日本肥満学会「肥満・肥満症の疫学」
http://www.jasso.or.jp/data/magazine/pdf/medicareguide2022_08.pdf
コロナ禍をきっかけにリモートワークが推奨され、同時にペーパーレス化や各種デジタル化も進んだ。
いままで遅々として進まなかったデジタル化が一気に広まり、「やればできるじゃん」と多くの人がSNSにポストしていた記憶がある。
巷ではすっかり、アナログ=非効率で減らすべきもの、デジタル=効率的で推し進めるべきもの、という認識になっているようだ。
ただわたしは、「効率化のためにデジタルを導入すべき」という主張には、まったく共感できない。
なぜなら、デジタル化したせいで余計な作業が増えている場面が、たくさんあるからだ。
先日、マダムユキさんによる『非効率大好き「現金主義者」に明日はない』という記事が公開された。
記事は、とある商店街の組合で、いままで集金だったものを振込に変更した話からはじまる。以下は、振込になったことを喜ぶヘアサロンのオーナーの言葉の引用だ。
「いやぁ、前の事務員さんはわざわざお店まで集金に来ていただいてたのに、こんなことを言うのは本当に申し訳ないんですけど、実はこっちとしても負担だったんですよね。
忙しくても接客中の手を止めて対応しないといけないし、集金のためにお店に現金を用意しておかないといけませんから。
その点、振込だと自分のタイミングでできますからね。アプリからの振込だと手数料もかからないですし。
請求書もデジタルにしていただいて、管理がグッと楽になりました」
一部の人からは振込になったことを歓迎された一方で、やはり「従来通り集金のほうがいい」と言う人もいたらしい。
そういう人に対して筆者は、デジタル化を嫌う人たちのお店は総じてうまくいっておらず、サービスを請け負う側の人間が減っているのにいつまで昔の意識を引きずっているんだ、と苦言を呈す。
たしかに、デジタルアレルギーで変化を嫌う人は一定数いる。時代に適応しようとする人からすれば目の上のたんこぶで、さぞかし邪魔くさいだろう。
が、わたしは振込に反対する人の気持ちもちょっとわかる。だってアナログは、他人に丸投げができるから。
先月、確定申告を税理士に依頼するため、書類の準備をしていたときのこと。
改めて、「デジタルって面倒くせぇな」と思った。
アナログの紙の書類のことではない。デジタル化されたデータの管理が面倒くさいのだ。
光熱費や年間の保険料などはすべて書類で郵送してくれるので、それをまとめて税理士に手渡しして「あとよろしく」で済む。
しかしデジタル化されたもの、たとえばアフィリエイトの収益であれば、サイトにログインして収益画面を開いて、PDFをダウンロードして、名前をつけてフォルダに保存して、メールを立ち上げて、税理士のアドレスを入れて添付しなきゃいけない。
本屋で買った資料本はレシート1枚の提出で済むのに、Amazonで買った場合、注文履歴から該当の本を選んで明細書をダウンロードしてフォルダに保存して……という作業を、何冊も延々と繰り返す必要がある。
こういう状況もあるから、よく言われる「アナログは非効率でデジタルは効率的」論を聞くと、「えっそうか……?」という気持ちになってしまう。
そもそもアナログであれば、たいていの作業を他人に丸投げすることができるのだ。
確定申告なら、レシートや請求書をまとめて税理士に渡せば、向こうが全部整理して計算して申請してくれる。
でもデジタルでは、明細やらなにやらを全部自分で画面からダウンロード・保存して、メールに1つずつ添付しなきゃいけない。
チケットの払い戻しだって、自分でやる場合、サイトにアクセスしてログイン、本人確認をして、チケットの購入日やチケット番号などを全部ぽちぽちと入力する必要がある。窓口に行けば、担当者が代わりに全部やってくれるのに。
最近こぞってアプリ化された各種ポイントも、QRコードやアプリショップからダウンロードして、個人情報を全部入力して、トップページ→ポイント→ポイントを貯める→この画面をレジで提示してください……とまぁ面倒くさいのなんの。
ちょっと前は、ポイントカードを出せばレジの人がスタンプを押してくれて、「500円引きできますけどどうします?」って聞いてくれて、うなずけば店員さんがいい感じに処理してくれたのに。
今までは他人に丸投げできていたのに、デジタル化したせいで「自分でやらなきゃいけないこと」が増えてる場面がたくさんある。
それを「効率化」と言われても、「いや、やること逆に増えてるんだけど……?」と思うのだ。
そもそも、アナログとデジタルは「効率」の点で比較されることが多いけど、「責任が誰にあるか」も重要だと思う。
デジタルだと基本的に、アクセスや管理権限は本人にかぎられる。クラウドで共有化などもできるが、それにもいちいち設定が必要だ。
つまり、責任は「本人」。
一方のアナログは、「誰か」に責任を丸投げすることができる。現物を持って窓口に行けば、窓口の担当者が「責任」を負ってくれるのだ。
セルフレジでトラブルが起こって、従業員がいなかったら、そのトラブルは自分の責任。でも従業員がいれば、その人が責任を負ってくれる。
だから結局、誰かしらが待機しているのだ。
アナログ=非効率な場面はたしかに多くあるけれど、デジタル化では自分がすべき作業とそれに伴う責任が発生するので、「そんなの面倒くさいから他人にやってもらいたい」という需要においては圧倒的にアナログが強い。
デジタル反対派は、新しい物への抵抗感もあるだろうが、根本的に「自分ができなかったら自分の責任になってしまうから嫌だ」という気持ちもあるんじゃないだろうか。
そういう人に対し、「効率」を根拠にデジタル化を認めさせようとしても、意味がないのだ。
「効率」を判断基準にすると、デジタル化に反対する人の気持ちもよくわかる。
場合によっては自分の作業が増えるし、責任をとってくれる人もいなくなってしまう。それなら、他人に丸投げできていたアナログのほうがいい。そう思う。
それでもデジタル化が必要なのは、効率の問題ではなく、労働力の問題だからだ。
アナログにおける「人で解決する」方法を採るためには当然、「人」が必要になる。しかし日本は今後人口が減る見込みで、働き盛りの年齢層の人はどんどん少なくなっていく。
労働力が減っていく以上、他人に任せていた面倒な作業を自分でしなきゃいけなくなるのはしかたない。そして、自力でできるようにするためのシステムがデジタル化なのであれば、受け入れざるをえないだろう。
確定申告での請求書をPDFでダウンロードすることだったり、セルフレジで支払い方法をいちいち選ぶことだったり、ポイントを貯めるためにアプリをダウンロードすることだったり……。
今はもう、かつてのように「どんな仕事でもいいから働きたい人」がだぶついていた時代とは違う。経営者からの理不尽な要求に労働者が耐える必要がないのはもちろんだが、これからは業種に関わらず、省力化していかなければ現場が回らなくなっていく。
どんなに経営者や消費者が人手をかけたサービスを望んでも、サービスを請け負う側の人間が猛スピードで社会から消えているのだから。
出典:『非効率大好き「現金主義者」に明日はない』
冒頭で紹介した記事中にもあるように、便利かどうかで判断できるほど、日本はもう人的資源に恵まれている国ではない。今後その状況は、さらに悪化するだろう。
アナログは「人」で解決し、デジタルは「システム」で解決する。
人がいなければ当然、システムでどうにかするしかない。
アナログの効率が~とか、デジタルのほうが便利~とか、そんな悠長なことを言っているから「デジタル化すべきかどうか」なんて話になるのだ。
正しくは、「効率のためにデジタル化すべき!」ではなく、「人力で解決していた作業を担う人はもういない、デジタル化したから自分でやれ!」じゃないだろうか。
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【著者プロフィール】
名前:雨宮紫苑
91年生まれ、ドイツ在住のフリーライター。小説執筆&
ハロプロとアニメが好きだけど、
著書:『日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち』(新潮新書)
[amazonjs asin="4106107783" locale="JP" tmpl="Small" title="日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち (新潮新書)"]
ブログ:『雨宮の迷走ニュース』
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いきなりだが、どうもおれは功利主義者らしい。反出生主義などの持論を述べていたら、そう指摘された。
なるほど、反出生主義論者のベネターの考え方は功利主義的かもしれない。
とはいえ、おれは功利主義をよく知らない。「最大多数の最大幸福?」くらいのものだ。なので、おれは本を読んでみることにした。
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たとえば、有名なJ.S.ミルなどはなんといっているのだろう。『功利主義』の冒頭はこんな文章で始まる。
正と不正の判断基準をめぐる論争は、解決に向けた進展が少しも見られない。人間の知識の現状を作り上げている環境要因のうちで、これほど期待はずれなものはほとんどない。
最も重要なテーマに関する思索でありながら、長いあいだ立ち後れたままであり、期待はずれという点でここまで際立っている環境要因はほとんどない。
哲学が誕生して以来、最高善に関する話題、あるいは同じことになるが、道徳の基礎になる問題は、抽象的な思想の中での主要問題として考えられてきた。才能に最も恵まれた識者たちがこの問題に没頭し、教派や学派に分かれて活発に戦い合ってきた。
二千年以上を経た後でも同じ議論が続き、哲学者たちは依然として、相変わらずの旗印の下にそれぞれ陣取っている。思想家も世間一般の人々も、この問題に関する意見の一致には近づいていない。
なんとまあ、正・不正の問題は長年論じられてきたが、期待はずれでしかないという。教派や学派に分かれてきたという。それはなんだろう?
……とか、白々しく書いてみたが、この本より先に功利主義についての本を一冊読んだ。
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『功利と直観 英米倫理思想史入門』、これである。功利主義の初心者が読む本なのかはわからない。わからないが、入門と書いてあるのだからいいだろう。というか、ちょっと読んでみて、「これはおもしろいぞ!」と思った。
この本の「はしがき」はこう始まっている。
現代英米の論争では、功利主義と義務論という二つの理論が大きく対立していると言われる。
功利主義(utilitarianism)とは、行為や政策が人々に与える結果を重視する立場であり、最大多数の最大幸福に役立つ行為が倫理的に正しいとする考え方である。一方、義務論(deontology)は、そのような結果の善し悪しにかかわらず、世の中には守るべき義務や倫理原則があるという考え方である。
たとえば、「政治家は公約を守るべきだろうか」と質問されたとしよう。一般的に言えば、政治家が公約を守ることは正しく、公約を守らない政治家は非難されるだろう。
では、なぜ公約を守るべきなのか。この質問に対しては、「人は自分がした約束を守るべきだから」と答えられるだろう。では、なぜ人は約束を守るべきなのか。この問いに対しては、功利主義者と義務論者で答え方が異なる。功利主義者は、「人々が約束を守るべきことによって初めて協力関係が成り立つ。そこで、人々が約束を守らず協力関係が成立しない場合よりも、約束を守ったほうが、社会全体の幸福が増すからだ」と答えるだろう。
一方、義務論者は、「約束を守るという行為が正しいのは、それがまさに人の守るべきルールだからだ。約束を守ることによって社会の幸福が増えるかどうかという結果の善し悪しには依存しない」と応えるだろう。
したがって、功利主義では、(たとえば政治家が数年前に発表した公約が現在の実情に合わなくなった場合など)約束を守ると社会全体の幸福量が減ってしまうと考えられるならば、約束を破った方がよいことになる。それに対して義務論では、たとえどのような結果が生じるとしても、約束は約束であるがゆえに果たされるべきことになる。
タイトルにある「直観」はいろいろあって「義務論」と現代では呼ばれるようになっている。二十世紀に入る前は、「功利と直観」であった。
この本では、近代における直観主義のはじまり、それに対するベンタム、ミル親子による批判からはじまり……。それぞれの陣営で百家争鳴というか、いろいろな理論が主張され、批判され、あるいは調停されようとする現代までの流れが書かれている。
同じ派でも意見の相違はある。なので、おれは功利主義どころか、高卒の無学なので本書を十全に理解した、覚えたということはできない。
ただ、「功利と直観」という根底の対立というものは現代までありつづけているものだとなんとなくわかった。わかったうえで、どうしてもおれは、やはり「功利主義者」だな、と思った。
しかし、どうも、「功利主義」というのはある種の汚名のようなものであり、先の子ミルの翻訳者もイメージの悪さから『効用主義』というタイトルにしようかと考えてみたとあとがきで書いている。本書でも「功利的」とか「功利主義」は誤解を受けやすい言葉であり、「公益主義」、「公利主義」、「大福主義」などの訳語が提案されていると指摘している。大福主義?
おれにはあまりそんな意識がなかったが、そういうところもあるのだろう。そんなのは知らないおれは、自分を「功利主義者(の見習い)」くらいの自己規定をしたといっていい。
精神の外にある真実が、観察や経験の力を借りることなく直観あるいは意識によって認識できるという考えは、現在、誤った諸学説やよからぬ諸制度の大きな知的な支えになっていると私には思われる。
こういう理論の力を借りて、起源もはっきり思い出せないような根深い信念や強烈な感情の一つ一つが、道理によっておのれの正当さを立証する義務をまぬがれることができ、おのれの正当さの証人はおのれ自身だけで十二分だとばかりに傲然とおさまりかえっているのだ。
『功利と直観』より子ミルの『自伝』
道徳的真理がア・プリオリなものかどうか。すごく雑に言えば、功利主義はそれを認めないし、直観主義はそれを認める。
すごく雑にいえば、おれは直観主義が主観主義にすぎないと感じるし、外的な基準なしに正・不正が決められてたまるかという感じがする。
いきなりシジウィックという人の話になるが、こういうことだ。
その一方でシジウィックは、(功利主義と対比される倫理学の一方法としての)教義的直観主義は、倫理学の方法としては不十分であると主張した。善意、正義、約束、誠実など、常識道徳が支持する様々な道徳概念は、一見すると自明な(prima facie)道徳規則を提示しているように思われる。
だが、科学的な公理が満たすと考えられる四つのテスト(明白で正確な言葉で述べられている、注意深く反省しても本当に自明である、他の真理と衝突しない、「専門家の意見の一致」が十分に得られている、の四つ)をクリアできるほどの自明性は持たない。
『功利と直観』
このあたり、もう西洋哲学はよくわからないが、子ミルのカント批判に乗ってしまうところもある。むずかしいのでカントなど読めないが。
どうもおれは、ア・プリオリな道徳を信じていない。「道徳器官」のようなものはない。「本当に大切なことには説明が必要ない(説明ができない)」という立場には立てない。心底そういうところがある。
おれがこのような功利主義者だな、と思った具体例が先日あった。ネット上の論争みたいなものだ。
もう、忘れている人も多いだろうが、「焼肉屋の食べ放題で上タン50人前頼んだら止められた」問題だ。
これは一部のネット上で賛否両論の意見がたくさん出た。曰く、「食べ放題なのだからいくら注文してもよい」。曰く、「品がないし、他のお客さんのことを考えていない」。
おれはこの、どうでもいいといえばどうでもいい話題に、非常に敏感になった。そして、二度も自分のブログで記事にした。
上タンばかり頼んでなにが悪い? 暗黙の了解があるというなら見せてみろ / 関内関外日記
こんな話題があった。おれはこれは完全に店側の落ち度だと思った。それが食べ放題というものだろう。店と客との契約だろう。
そう思ってはてなブックマークを見てみたら、賛否両論というか、ひょっとしたら客を批難する声が多いようにも見える。
要約する。おれの立場は「食べ放題なら上タン50人前注文しようが問題ない」派ということになる。一度に50人前頼んだわけでもない、他の注文もしている、ちゃんと完食している。そういう前提ならば、なにが悪いのか、ということだ。
まず、契約の問題。店側に上限を設ける自由も上タンを食べ放題から外す権利もある。
それをあえてしないでおいて、客側に非があると考えるのは不当だ。
次に、マナー、常識、暗黙の了解について。これについておれは「暗黙の了解があるなら見せてみろ」と書いた。
だれも「常識的には3人前(5人前、10人前……)である」と言わない。あえて口をつぐんでいるかのように、ただただ50人前の非をあげつらう。
後者だ。おれは、この後者の物言いに、大きな疑問を持った。
たとえば、朝日新聞が「エビデンスがないと駄目ですか?」という記事を出したときは、大きな批判が巻き起こった。
「エビデンス」がないと駄目ですか_ 数値がすくい取れない真理とは/朝日新聞デジタル
何をするにも合理性や客観性が求められ、数値的なエビデンス(根拠)を示せと言われる時代。そのうち、仕事でもAI(人工知能)が導く最適解に従うことになるのかもしれない。
それなのに、なにをエビデンスに50人前を非常識とするのか。マナー違反とするのか。
この件については、焼肉屋の内情から推論するでもなく、ただただ、「品がない」だ。
なので、おれは、あえて自分の日記でも煽り気味に「出してみろ」と書いた。それなりにコメント(ソーシャルブックマーク)が寄せられたにもかかわらず、これに答える人は皆無に近かった。
おれは、根拠のない「マナー、道徳、常識、暗黙の了解」、これによって人が人を叩く行為が気に入らなかった。そこに敏感になった。おれはそれを批判した。
むやみに救急車を呼ぶなって明文化されている。そして、人はいつどこで最悪の無知蒙昧になるかわからない弱い存在だ /関内関外日記
了見があるなら、それを述べろ。あいまいな空気に委ねるな。金がないというなら、金がないといえ。金がほしいというなら金がほしいといえ。おためごかしはやめろ。「察して」ちゃんはやめろ。それはおれがずっと思ってきたことだ。
先の記事を読んで、単にルールに書いてないことはなんでもやっていいと思っている野郎だと思われたので、その誤解も解いておいた。ルールは書かれるべきだと。明示されることにより、世界の風通しはよくなると。
どうもこれは、直観的に「上タン50人前」を「道徳的でない」とする人と、そういう感覚のない人の対立ではないかと思った。おれは後者に属するというわけだ。
……「擦る」って言葉、なんなんだろうね。「同じ話題を繰り返す」という用法での「擦る」。
たぶん、芸人の業界用語が流れてきたものだと思うが、まあいい。まだ続ける。
で、功利主義的に見てみると、おれの考えでは「暗黙の了解を前提とした世界」より、「ルールが明示されている世界」のほうが不幸は少ないということになる……のだと思う。
「だれかが過剰な注文をすることで、他の人が食べられなくなるのでは?」
「焼肉屋が食べ放題をやめてしまい、他の人の迷惑になるのでは?」
という意見もある。
そういった意見は、単なる「暗黙の了解の強制」ではない。考えるに値するし、正しい面もある。そういう批判はあってよい。
だが、おれはこう考えた。究極的なところで客と店との契約の信頼性が損なわれることは社会にとって不幸である。
それにともなって客と店、客と客の間に疑心暗鬼と不信感、憎悪の感情が増えることも社会にとって不幸である。
ゆえに、この条件で上タン50人前を注文する行為を批難することは、社会の幸福を増やすことではない。
解決策は、店が困るのであれば、店の自由な権利によって困らないようにシステムを設定すればよい。それだけのことだ。おれはそうジャッジした。
たしかに、細かい部分を見ると、問題となった書き込みは露悪的な部分もあって、それに品があるかないかといえば、ないと思われてもしかたない表現だった。
それならそれで、単に「おれはこの人が嫌いだ」、「この書き込みが嫌いだ」と気持ちを表現するだけにすればいい(もちろん、「したほうがいい」とは思わない)。
そこに暗黙の了解の衣をかぶせたり、それを武器にして叩いたりすることに対して、おれは批判的になる。おれが根拠のない(根拠を設定すべきでない)とする「正義」を信じていないがゆえであろうし、それは危険ですらあると思うのだ。
いずれにせよ、おれはア・プリオリな道徳、あるいは真理というものを信じていない。
なにか信心でも持っていれば、その宗教の教えによってそれを得ていたかもしれないが、そういうこともない。
人間という愚かな存在、愚直に、試行錯誤していくしない。そう思っている。たとえば、焼肉上タン50人前をチートやハックだという意見もあるだろう。
だが、そんなレベルではなく、法律の隙間をついてグレーゾーンをついて巨万の富を得たベンチャー、現大企業なんてものもあるだろう。
その行為そのものは、批判的に見ることはできるだろう。しかし、愚かな人類の流れとしては、バグの発見者であり、システムの改善のきっかけであると言えるかもしれない。あるいは、旧来のシステムの弊害が大きくなりすぎていたのかもしれない。
上タンでいえば、ほかの焼肉屋が「上タンには制限をつけよう」とか考えるきっかけだ(まあ、どんな大食いの人がふらりと現れるのかわからないのが食べ放題のリスクであると、わかっていないでやっているとしたら、それは店の責任と言わざるを得ないが)。
このように、「人間は過去、現在、未来、バカ」という立場で物事を考えていく、社会を成立させていくのを中島岳志は「リベラル保守主義」と言った。
保守主義って、本来どういうものなのだろうか。/ Books&Apps
功利と直観においては「理性」を直観より信頼するが、まあそのあたりはズレがあるかもしれない。でも、おれは、愚直に効用を考えていく理性を信用する。ベネターの反出生主義、ピーター・シンガーの安楽死論、一見自明に「おかしい」と思うことも、考えていくべきだ。一歩一歩。
そもそも、いろいろな文化、文明、宗教、人種、言語……多様性の時代だ。グローバルな社会だ。わかりあえないのは前提だ。そんな中で、「普遍的な道徳」というものを前提とすることは難しい。暗黙の了解は成り立たない、と考えたほうがいい。
……すべての個人を保護する道徳は、各個人が最も気にかけている道徳でもある。それとともに、各個人は、この道徳が言葉と行為を通じて周知され、きちんと遵守されることに、最も強い関心を寄せている。
J.S.ミル
(強調は引用者による)
たとえば、かなり同質的な人間集団である日本人の間でも、牛タンを巡って一つの普遍的な常識を示すことすらできない。
一見自明なことがら。これについて、一呼吸おいて考える必要がある。
たとえば、おれが思い浮かべるのは、「なぜ人を殺してはいけないのか?」という話題だ。少年が発したこんなテーマが話題になったことがあった。
これについて、いろいろな識者がいろいろな意見を述べた。
なかにはこんな自明なことは、問題ですらないとはねつけた人もいた。
だが、それは誠実な態度とはいえない。そんな「自明」は存在しない。なぜならば、この国には死刑という「人を殺すこと」が倫理の先の法律として成立している。そして、それを八割の人間が支持している。
この現状で「人を殺してはいけない」とは、常識でもなんでもない。社会の道徳判断ということはできない。
「人を殺してはいけない」なんて一見自明な道徳(自明であることに「圧倒的多数な例外」なんてないですよね?)も成立しない。
ゆえに、自明の顔をしたことには疑いを持たなければいけない。面倒くさいが熟慮が必要だ。おれは直観的にそう思うが、あなたはどうだろうか?
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【著者プロフィール】
著者名:黄金頭
横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。
趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。
双極性障害II型。
ブログ:関内関外日記
Twitter:黄金頭
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「ライターになりたいけど、どうすればいいですか?」
と、相談を受けたことがある。
しかしライターは「なる」ものではない。「やる」ものだ。そこに誰の許可も必要ない。
本質的には何かしら文章を書いて、公開すればだれでもライターを名乗れる。
そこで、「書けば、ライターを名乗ることができます」と回答した。
すると彼は「仕事を取るにはどうしたらいいでしょう」と言う。
確かに、お客さんを捕まえて仕事を出してもらうには、書くこととは全く別のスキルが求められる。
そこで、「メディアを探して売り込む方法がわからない、ということでしょうか?」と尋ねた。
しかしそこで彼は首を振った。
営業や売り込みが苦手で、それはしたくないのだという。
しかも実績がないので、どうせ断られるだろう、と言うのだ。
しかし、そういうことは、やってみないとわからないはずだ。
「書いたものをブログなどで公開していれば、実績にできますし、営業は仕事を取るなら必要なのでは」と述べた。
すると彼は唐突に「ライティングスクールとかはどうでしょうか」と聞いてきた。
もちろん、私が特に反対する理由はない。ただ、先ほどの話があったので「スクールは、仕事を紹介してくれるのでしょうか」と尋ねた。
それならば良いのではないかと。
すると彼は、仕事を紹介してくれるわけではないが、卒業生がライターになっているのだ、と説明してくれた。
そして、そのライティング教室の優れているところや実績を、熱心に私に話してくれた。
鈍い私も、ここに来て、ようやく気づいた。
要するに彼は「憧れだったライティングスクールに行きたい」のが最優先であり、どうすればライターになれるのか聞きたいわけではなかったのだ。
こうなると、「アドバイスは不要、やりたいことを後押ししてあげるだけ」という、コミュニケーションの原点に立ち返る必要がある。
ということで私は、彼の話をひたすら聴いた。
彼は納得し、帰って行った。
*
実は、このようなことはコンサルタントの仕事をしていて、全く珍しくなかった。
コンサルタントを雇っているにも関わらず、自分の話ばかりする経営者は、本当にたくさんいた。
では、私の役割は何か。
それは、彼らの思っていることを聞いて、肯定することだった。
アドバイスも意見も、もちろん批判も彼らは必要とはしていない。
彼らが真に必要としていたのは、「自分のやりたいことに対して、他者が肯定してくれること」だった。
もちろん「真のアドバイス」を求められる仕事もたくさんあった。
しかし、それよりはるかに多くの「相手が決めたことを後押しするだけ」の仕事があった。
そうした体験を通じて、私は一つの真理を得た。
「ほとんどの人は、他人の意見に興味がない。」のだ。
いうなれば、彼らにとっては「自分のやりたいようにやる」こと自体が目的、あるいは成果となっている。
これこそ、コンサルタントの仕事をしていて得た、コミュニケーションの最も根本的な知見の一つだった。
だからこそ、「知っている」と「実行する」そして「(企業にとっての)成果を出す」には、それぞれに巨大な差がある。
「知ろうとしない」ので、アドバイスを求めない。
「知っていてもやらない」ので実行しない。
「実行したとしても成果には興味がない」ので成果が出ない。
それが、人間なのだ。
*
しかしごく稀に、正反対の行動をとる人たちがいる。
アドバイスを積極的に求め
そこで知ったことを実行に移し
実行してたことを成果が出るまでしつこくやる人たちだ。
彼らはある意味、脳がバグっているので、自分のやりたいことよりも、成果のためにやるべきだとみなしたことを優先する。
そして実際、成果をあげる。
だから企業の中では、上の2種類の人間たちの争いが絶えない。
多数の「やりたいことだけやらせろ派」と、ごく少数の「やるべきことをやれ派」だ。
コンサルタントは常に、これらの人々の間に立たされた。
そんな時に、どうしなければならなかったか。
一言で言えば、「やりたい」と「やるべき」を両立させた。
中でも特に効果的だったのは、「身近で簡単な、成功事例を掘り起こすこと」だった。
これはある意味、定石のようなところがあり、スタンフォード大ビジネススクール教授のチップ・ハースは著作「スイッチ!」の中で、以下のような事例を取り上げている。
ジェリー・スターニンは1990年にセーブ・ザ・チルドレンの一員としてベトナムに派遣され、子どもたちの栄養不足の課題に立ち向かった。
言語の障壁、限られた予算、そして政府からの圧力に直面しながらも、スターニンは大規模な開発援助プロジェクトに依存するのではなく、地元の母親たちと協力し「健康な子どもを育てている家庭の習慣」を模範として取り入れるという「ブライト・スポット」アプローチを採用した。
地元の食材を使い、食事の回数と方法を調整することで、彼らは栄養不足を効果的に改善する方法を発見した。
この方法は、地元の文化に根ざした持続可能な解決策を提供し、村の母親たちが自らの力で栄養状態を改善する方法を学ぶ機会を与えた。
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チップ・ハースはこれを「ブライト・スポット」と名付け、利点を紹介している。
身近な成功事例の効用の1つは、「他人事」でなくなること。
「この施策は、他者(コンサル)から教えてもらったことではない。私たちのすでにやっていたことだ」となりやすい。
そしてもう一つの効用が、「ひとまずやってみよう」となること。
すでに実施されていて、しかも成功している身近な事例は、実行のハードルが下がる。
仕事を行う上では、「やるべき論」よりも、「ほとんどの人は、他人の意見に興味がない。」と言う現実を踏まえて、「やりたくなるように仕向ける」という一種のハック術が、有効なのだと、つくづく感じる。
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【著者プロフィール】
安達裕哉
生成AI活用支援のワークワンダースCEO(https://workwonders.jp)|元Deloitteのコンサルタント|オウンドメディア支援のティネクト代表(http://tinect.jp)|著書「頭のいい人が話す前に考えていること」55万部(https://amzn.to/49Tivyi)|
◯Twitter:安達裕哉
◯Facebook:安達裕哉
◯note:(生成AI時代の「ライターとマーケティング」の、実践的教科書)
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Photo:Stan Hutter
4月の入学、入社シーズンになると決まって思い出すことがある。
新社会人生活2年目から30代前半まで、10年以上も続いた苦い借金生活。その行き着く先は「闇金」だった。
あれから20年以上たった今も、最後の闇金業者との一挙手一投足が鮮明に頭に浮かぶ。
昨今の闇金は、顔も素性も分からない相手からサイトと他人名義の口座などを介して金を借りる「ネット型」だが、2000年代前半までは、トサン(利息が10日で3割)、トゴ(同5割)といった暴利をむさぼる闇金が、主要駅周辺に堂々と事務所を構えていた。いうなれば「店舗型」だった。
今から約25年前、確か31~32歳だったと思う。22歳で公営ギャンブルを扱う媒体に入社して以来、借金を重ねるようになった。
周囲にも少なからず似たようなギャンブル&夜の街仲間がいて、借金が雪だるま式に増えていっても「まあ、何とかなるだろう」と危機感は薄かった。
昼夜を問わないギャンブル漬けに加え、夜な夜な繁華街、色街に繰り出す生活を繰り返せば、借金額が膨らむのは当然。
銀行系カードローンに始まり、信販・クレジット会社系→サラ金(現在の消費者金融)→街金(正規業者だが、金利は出資法の上限ぎりぎり)と、金を「引っ張れる」場所を求め、主要駅前周辺や繁華街をさまよう日々が続いた。
その間、貸しやすい理由を見繕っては友人知人からも引っ張った。不義理、非道もいいところだ。
挙句の果てには大口の●●ローンを利用した、脱法行為まがいの金策にも身を投じた。
ピーク時の借金総額は約1500万。そして、考え得る金策がついに尽きた時、リスクを覚悟で門を叩いたのが闇金だった。
今も鮮烈に記憶しているのは、冒頭にも書いた「最後」の闇金業者とのやり取り。
その闇金は、神田駅から徒歩10分ほどの、古びたマンションの一室にあった。
今のように、スマホで難なく目的地まで行ける時代とは違い、当時は電信柱の板金プレートに記された町名、番地を頼りに目的地を探し出す時代。夕刻のうす暗い雑居ビル街を徘徊した末に、ようやくその闇金業者にたどり着いた。
神田駅は新橋などと並ぶ、都内でも屈指のサラリーマンの街。同駅周辺の飲食街では、晴れて社会人になった新入社員の歓迎コンパが、そこかしこで開催されていた。
期待と不安を胸に、先輩社員や同期らと、居酒屋やカラオケ店で元気にはしゃぐ新入社員たち。そうしたまぶしい光景が自分にもあったことを思い出しながら、「最後」の闇金業者の門を叩いた。
「●●商事」と記されたドア横のブザーを鳴らすと、まだ20代と思われる体育会系の男が扉を開いた。
「先ほど電話した●●ですが」。意外にも、男は礼儀正しく、「どうぞ、中へ入ってください」と私を部屋へと導いた。
その闇金業者の事務所はワンルームマンションだった。縦長の部屋の奥に、経営者と思われる60代の男が座っていた。
鋭い視線を浴びせるその男は、白髪交じりで角刈り。それまでに何軒も、闇金の事務所をのぞいてきたが、対応する男たちは皆、スーツ姿だった。
しかし、菅原文太を白髪にしたような、この角刈りの男は、上下とも黒のジャージー姿。足元をみると、素足で雪駄(せった)を履いていた。
木製の、どこか豪華な机を挟んで対峙すると、角刈りの男は「これ、書いてくれるか」と申込用紙に視線を送った。
住所、氏名、職業、緊急連絡先など、一通りの個人情報を記入すると、男は「お宅は今、青森に住んでいるのかい。それじゃ(融資は)無理だな。10万くらい、すぐに出してやりたいんだが……」と即座に言った。
当時は、闇金の広告が、雑誌やスポーツ紙はもちろん、それこそ公共交通機関である路線バスの車内広告にも堂々と掲示されていた時代。
電信柱や公衆電話ボックスには、ホテトル(今のデリヘルか)や何社もの闇金のチラシがパタパタ貼られていた。
そのどこかで目にした
「(貸金業登録)東京都知事●●」
「誰でも貸します!」
「ブラック歓迎」
「即日融資」
「金利8%」
などと、夢と希望を抱かせる広告を出していたのが、この●●商事。
この最後の頼みの綱と思われた闇金の角刈りの男から、まさかの融資NGを通告されたシーンは、今も鮮明に覚えている。
角刈りの男は、「青森から戻ったら、また来てよ」と、私の目を見据えて言った。直立不動で立っていた若い男に向かって、「お帰りだよ」と告げると、若い男は丁重にドア付近まで見送ってくれた。
推測だが、最後に門を叩いたその闇金は、金融を”しのぎ”とするヤ●ザで、角刈りの男は親分、体育会系の20代は若い衆だったに違いない。
私のような末期の多重債務者であっても、相手の目を見て、誠実に対応する姿勢は、違法な闇金業者とはいえ、筋が通っている気がした。
時代の違いと言えばそこまでだが、リスクを承知で事務所を構え、顔をさらして金を貸していたのが、2000年前半までの闇金業者。
暴利をむさぼる違法業者には違いないが、ネット経由で素性も居場所もさらすことなく、中には卑劣な手段も辞さない業者もいる昨今の闇金とは、確かに違う存在だった気がする。
それはともかく、本来なら最も審査が甘い、裏を返せば、債権回収に自信があるはずのヤ●ザ金融に門前払いを食らったことで、現実を直視することができたのは何とも皮肉。
その意味で、相手の心中は別として、ピシャリと融資を断ってきた、あの白髪交じりの角刈り男には、少なからず感謝の思いがある。
結局、その神田のワンルームマンションでの出来事を機に一念発起。自ら債務整理に動き、社会復帰の扉を開いた。
最初に利用した新橋のトイチの闇金は、元本の半額払いで完済扱いに。
競馬が共通の趣味だったその闇金経営者は、「俺が言うのも何だけど、闇金はやめときなよ」と言っていた。
二軒目の神田の闇金は、交渉で利息カットに。以下、可能な限り、自ら足を運び、債務整理を行った。
その後、債務整理を手伝ってくれた弁護士の後輩に「先輩、闇金には不法原因給付で、一切返済する必要はないんですよ。法的には、すでに払った金も取り戻せますよ」と言われた。
ただ、当時は勤務先や友人、知人に多重債務の事実を知られたくないという思いが強く、穏便に済ます道を選んでしまった。若気の至りで、今は猛省している。
振り返れば、銀行、信販、クレジット会社、サラ金、街金など、金を借りた正規の金融業者は20社以上。
友人、知人に借りる当てがなくなると、最後の手段と闇金に手を出した。闇金を一社回るごとに、「これが最後」と思いつつ、気づけば計7社の闇金からつまんでいた。
先にも書いたが、自転車操業のピーク時は1500万円(住宅ローンをのぞく)。
その間、いかに無駄な利息を消費したか、また何より大切な人の心(信頼)を失ったか。
ある友人から金を借り、約束の返済期限を守らなかった際、「お前がそういうヤツだとは思わなかったよ」と冷たく言われた。今も頭から離れない、ズシリと重い一言だった。一度失った信頼は、恐らく二度と取り戻せない。
先日の夕刻、池袋の繁華街を歩いていると、リクルートスーツ姿の新入社員を囲んだ集団が、そこかしこにいた。皆、不安を抱きながらも、いい目をしていた。20年以上も前に、神田駅で見たあの光景と同じ景色だ。
かくいう私は、今も自堕落な生活を変えられず、少なくない借金を背負っている身だが、闇金にだけは手を出していない。それだけが唯一の救い、自慢(誇れることかい!笑)だ。
ただ思うことは、新入社員に限らず、若い人たちには、引き返せない道に行って欲しくないこと。闇金の利用もそうだが、昨今問題の詐欺加害や人間関係で人生を棒に振るなんて、あってはならない。
明暗を分ける「ここ一番」での判断は自己責任。不安と希望に満ちた若者たちを見て、「ここ一番は冷静な判断と勇気ある行動を」と願わずにはいられない。
「お前が言うな!」なんてお叱りの声が聞こえてきそうですが(笑)。
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【著者プロフィール】
小鉄
某媒体で公営ギャンブル業界や芸能界など幅広く取材。
現在はフリーの執筆者として、「博打で飯が食えるか」をテーマに奮闘中。
まあ無理だろうな~(笑)
Photo by:Stockphotokun
2022年11月にOpenAIがリリースしたChatGPTは、それまでの対話AIとは異なり、実際の人間が話すような流暢な文章を生成することで一躍注目を浴びた。 公開からわずか2ヶ月でユーザ数は1億人に達し、さらに、検索エンジンにおける絶対的な地位を脅かされると考えたGoogleが社内で緊急事態宣言を出すなど、その衝撃の大きさは計り知れないものがある。
生成AIで何が変わり、何が変わっていく?――自然言語処理研究者×グロービスAI経営教育研究所が語る2023年と2024年
ChatGPTは文章生成AI(以下、「生成AI」と呼ぶ)の一つであり、ChatGPTの登場とともに生成AIという言葉も世の中に広く浸透した。 図1に示すように2022年12月には検索回数が大きく増え、その後新語・流行語大賞2023にノミネートされるほど生成AIという言葉が一般的なものとなった。
図1 googleトレンドより
(ChatGPTが登場する2022年11月以前に検索されているのは画像生成AIの影響によるもの)
ChatGPTのリリースから1年強しか経っていないが、ビジネスの現場では既に生成AIが幅広く活用されている。 全てを挙げることができないが、例えば次のようなものがある。
ソフトバンクグループ代表取締役会長兼社長の孫正義氏が2023年10月に自社のイベントで、「ChatGPTを使ってない人は『人生を悔い改めた方がいい』」という趣旨の発言をするなど[i]、生成AIはビジネスパーソンにとって必須のツールとなりつつある。
ビジネスの現場で生成AIが浸透する中で、「生成AIに仕事が奪われる」という言説や生成AIに奪われる仕事一覧などの記事を多く目にするようになった。 実際、生成AIに仕事を奪われたという人も現れ始めている[ⅱ]。
それでは、人間はこのまま生成AIにあらゆる仕事を奪われ続けるのだろうか? 筆者の答えは「No」だ。正確には、一部の仕事は奪われるかもしれないが、大部分の仕事は奪われることはないと考える。 理由を以下に述べる。
これはAI全般に言えることだが、AIは100%正確なアウトプットを出すことはできない。必ず間違えることがある。ハルシネーション(幻覚)と呼ばれる、生成AIに尋ねたところ知らないことをまるで知っているかのようにデタラメに答える現象もそのひとつである。 また、生成AIの学習データに誤った情報が含まれると、その誤った情報に基づいて正しくない回答を返す場合もある。
例えば、生成AIを文章校正に使った場合、校正結果が全て正しいとは限らない。 生成AIの結果を人間の目で必ずチェックする必要がある。 生成AIが事前にチェックしてくれているので、人間がゼロからチェックする場合と比較すると時間は短縮できるかもしれないが、人間が直接確認する必要がある点はこれまでと変わらない。 このように、仕事の進め方や時間の使い方に変化はあるものの、生成AIのアウトプットをそのまま受け入れることは危険であり、生成AIに仕事が完全に奪われることは決してないことが分かる。
生成AIのアウトプットは、指示文とも呼ばれるプロンプトに大きく影響される。 同じことを訊く場合でも、要領を得ないプロンプトと、具体的で簡潔にまとまっているプロンプトではアウトプットが大きく異なる。 もちろん、後者の方が望ましいアウトプットが得られる。
これは人間にも当てはまることで、例えば仕事で部下に指示を出す場合、指示が曖昧で分かりづらいと部下は意図通りに動かない可能性が高い。 一方、指示が具体的で分かりやすいと部下は意図通りに動く可能性が高い。
要するに、生成AIをうまく使いこなすためにはプロンプトを具体的に分かりやすく書く必要があり、これは人間にしかできない作業である。 なぜなら、アウトプットの目的を文脈まで考慮して分かっているのは人間だけであり、それ故に文脈を言語化できるのも人間だけであるからだ。 例えば、広告のキャッチコピー作成の場合、「広告のキャッチコピーを作成して下さい。」というプロンプトだけを生成AIに投げても望ましいアウトプットを得られる可能性は低い。 望ましいアウトプットを得たければ、
などの文脈を言語化してプロンプトに入力する必要がある。 文脈は必ずしも言語化されているとは限らないので、生成AIが自動的に補完することはできない。 つまり、生成AIの能力を最大限引き出すためのプロンプトは、人間が作成するしかないのである。 これより、文章校正の例と同じように、仕事の進め方や時間の使い方に変化はあるかもしれないが、生成AIが人間の仕事を完全に奪うということは決してないことが分かる。
生成AIに仕事が完全に奪われることはないものの、仕事の進め方や時間の使い方はこれまでとは異なる。 それでは、このような生成AI時代に身につけるべき能力・スキルとは一体何であるのか? 答えは「クリティカル・シンキング」である。
前述の通り、生成AIの能力を最大限引き出すためには、指示内容を論理的に整理した上で生成AIが十分に理解できるプロンプトを作成する必要がある。 まさしくクリティカル・シンキングにおける「客観的な視点で考えた内容を周囲の人に納得感のあるかたちで伝える力」が求められているのである。 これまでは伝える相手が「周囲の人」だったのが、「生成AI」も対象に加わったと考えると理解しやすいかもしれない。
また、生成AIは間違えることがあるので、必ず正しい専門知識を持った人間が結果を確認するステップを挟む、もしくは一定の誤りが許容される状況で生成AIを利用するといった工夫が必要となる。 特に、医療など誤りが許容されない領域ではそのような工夫は不可欠である。
生成AIの弱点をどう補うのかという問題解決だと考えれば、ここにおいてもクリティカル・シンキングにおける「問題解決力」が求められる。
生成AIの登場により色々なものが大きく変化したように見えるが、ビジネスパーソンに求められる能力・スキルの根本はこれまでと変わっていない。 ただし、生成AIを使う人と使わない人では大きな差が付くであろう。 クリティカル・シンキングを身に付け、ビジネスの現場で生成AIを大いに活用していただきたい。
最後に、GoogleやOpenAIで生成AIの開発に携わったある研究者の言葉を紹介して本稿の締めとする。
原文:AI will not replace you. But another human who’s good at using AI will.
日本語訳:AIがあなたを取って代わらない。AIをうまく使いこなす人があなたに取って代わるのだ。
[i] まだChatGPTを使ってない人は「人生を悔い改めた方がいい」――孫正義節が炸裂|ITmediaオンライン
[ⅱ]「AIで仕事失いました」あなたの働き方が変わる?|NHK NEWS WEB
(執筆:佐々木 健太)
【著者プロフィール】
日本で最も選ばれているビジネススクール、グロービス経営大学院(MBA)。
ヒト・モノ・カネをはじめ、テクノベートや経営・マネジメントなど、グロービスの現役・実務家教員がグロービス知見録に執筆したコンテンツを中心にお届けします。
Photo by:Pawel Czerwinski
ここ数か月、色々な人と「推し」について意見交換する機会があり、そうしたなかで「そういえば、承認欲求の時代の限界や最果てとして『推し』ブームを捉えることもできるよね」みたいな考えが温まってきたので、今日はそれをまとめてみる。
どうして「推し」がブームが起こったかを考えると、ブームが到来した原因や要因はあれこれ思い浮かぶ。だから、これから述べる「承認欲求の時代の限界」だけが原因とは言えない。
たとえば「推し」という言葉の使い勝手の良さや、SNSをとおして「推し活」をリアルタイムにシェアできるようになったことや、20世紀末~00年代にかけてオタク界隈のコンテンツとみなされていたものが市民権を獲得してきたことetc……も、「推し」をブームたらしめた要因として挙げやすい。ほかにも色々あって、たとえばコロナ禍が流行してコンテンツやエンタメの需給関係が変化したこと、なども挙げたほうがよさそうだ。
だから、以下の話は「推し」がブームになった要因のひとつをクローズアップした話として読んでいただきたい。
で、ここからが本題。
「推し」ブームが広がっていった背景のひとつとして、私は「承認欲求に動機づけられることにみんな疲れちゃったんじゃないか」を疑っている。「自分をキラキラさせるのに疲れちゃったんじゃないの?」とも言い換えられるかもしれない。
承認欲求ベースで充足感を得るのも、それはそれで楽しかったり心地良かったりする。
自分らしい表現、自分らしい仕事、みんなが注目してくれるメンション・アクション・ファッション。それらをインスタグラムやFacebookやtwitterにアップロードする──2010年代は、そうした自分をキラキラさせることで心理的充足をめざす活動がきわまった時期のひとつだった。
2017年には「インスタ映え」が流行語大賞に選ばれている。この頃は、いわば猫も杓子もインスタ映えやSNS映えを意識していた。
インスタグラムというツールも、つぶさに見れば「推し」がブームになっていく前提条件として見逃せないのだけど、さしあたり多くのユーザーの「映える投稿」を動機づけていたのは自分(や自分のアカウント)を良く見てもらいたい欲求、そして自分がキラキラしたい欲求だった。
でも、誰もがキラキラできるわけがない。
まだフォロワー数が伸びる余地が大きかったあの頃、実際にキラキラを演出してみせ、インフルエンサーになりおおせた人はそれなりにいた。でも、全体から見ればほんの一握りでしかない。
インスタグラムやSNSは「キラキラした自分」という金塊を全員に配っていたわけではなかった。「あなたもこれでキラキラした自分を掘り当ててください」というツルハシを全員に配っていたのだ。
一部の人間がキラキラできて、そうでない大多数はそこまでキラキラできない、のみならず、「キラキラ格差」を直視しなければならない──承認欲求のゴールドラッシュに沸いた2010年代の狂騒の正体は、だいたいそんな感じではなかっただろうか。
そうした状況が周知されていくなか、自分自身のキラキラにリソースを費やし続け、なかなかフォロワー数も増えないのに頑張り続けるのは修行僧のようにストイックなことだったし、誰もが続けられるわけがなかった。
キラキラできるツルハシは、それを十分に生かせる人には福音でも、生かしきれない人には呪いたりえる。自分自身と他人のフォロワー数を比べて羨むような心性が加われば、特にそれは呪わしくなりやすい。
承認欲求が心理的充足の重要なファクターだからといって、人はそこまで自分自身にリソースを突っ込みきれないし、自分を磨いて印象づけるインプレッション機械にはなりきれない──そういうことを皆が骨身にしみて理解した時期と、「推し」や「推し活」が浮上していった時期は、タイミング的にはだいたいあっている。
ついでに言うと、そうした承認欲求ベースであくせくする者の哀歌である「タワマン文学」が盛り上がってきた時期もタイミング的にはだいたいあっている。
誤解のないよう断っておくと、自分キラキラというか、承認欲求ベースの心理的充足の根っこはかなり深く、インスタグラムやSNSよりずっと前まで遡ることができる。
むしろ、インスタグラムやSNSは、既存の承認欲求ベースの社会病理に乗っかるかたちで流行した、と考えるほうが自然だろう。
20世紀後半を振り返っても、そこに自分キラキラを良しとする心性を発見できる。
[amazonjs asin="4061385798" locale="JP" tmpl="Small" title="「おたく」の精神史 一九八〇年代論 (星海社新書)"]
「新人類」の本質とは実は消費者としての主体性と商品選択能力の優位性にある。つまり、自分たちは自分で自己演出する服を選べる、といったより主体的な消費者である、というのが「新人類」の根拠であった。
大塚英志『「おたく」の精神史』
評論家の大塚英志は、『「おたく」の精神史』というオタクについての書籍のなかで、マイノリティとして軽蔑されるオタクの対照として、アーリーアダプター(そして以後のマジョリティの雛型)としての「新人類」についても解説している。その新人類を理解するキーワードが、商品選択能力、そして自己演出である。
では、ここでいう商品選択能力とは一体何なのか?
それは自己演出のツールとして服や車やレストランといった商品を選択できる能力、という意味だ。
インスタグラムのなかった20世紀において、自分自身をキラキラさせる手段は自分自身の着るもの・食べるもの・消費するものを選ぶこと、その選択をとおして自己演出をやってのけることだった。
田中康夫の小説『なんとなく、クリスタル』で偏執的に記されている、タワマン文学のご先祖様のような光景と心性は、はじめは首都圏の富裕な子女のものでしかなかったが、90年代には地方の津々浦々にまで広がり、最終的には田舎の高校生までもがブランド品を身に付ける社会状況を生み出した。
自分でお金を稼ぐ。自分で商品を選ぶ。自己演出をとおしてキラキラした自分になる──それは福音だったろうか、それとも呪いだったのだろうか?
大塚英志は、オタクたちはそうではなく、自分の好きなものにお金や情熱を傾けていた、といったことを記している。
新人類とその追従者たちがマジョリティとなった自分キラキラの20世紀末にあって、自分キラキラにリソースを費やさず、自分の好きなキャラクターやアイドルにリソースをなげうつオタクたちは異端であり、理解しがたい存在だった。
当時、オタクが激しくバッシングされていた理由は多岐にわたるが、その一部は、オタクたちが新人類的な自分キラキラの規範から逸脱していたことによると私は想像する。
なお、この話をさかのぼっていくと20世紀後半の日本ではケリがつかなくなって、しまいには個人主義の誕生や宗教改革の話にたどり着いてしまうので、そこは割愛させていただくことにする。
とにかく、ここで言いたいのは「インスタグラムやSNSが登場する前から、自分キラキラを求める心性は存在していて、しかもそれがユースカルチャーのなかではマジョリティだった」ということだ。
自分キラキラに背を向け、アニメや漫画や鉄道やアイドルに夢中になっているオタクたちは一方的に異端者とみなされ、ダサいとみなされたのだった。
そんな時代にあっても、オタクたちは、自分キラキラに重きを置かず、自分が好きなキャラクターや人物をしゃにむに追いかけ続けていた。
今でいう「推し」や「推し活」に相当する活動を、女性側のオタクも男性側のオタクもそれぞれ熱心にやっていた。そうした営みは現在も続いている。少なくとも各界隈、各ジャンルの中核をなしているのはそのようなオタクたちだ。
オタクにだって多かれ少なかれ承認欲求はあっただろうし、その兆候を読み取ることは不可能ではない。だからといって、オタクたちが自分自身をキラキラさせるための自己演出に力を注いでいたとは思えない。
自分のジャンルを深堀りする・キャラクターを愛する・「〇〇はわしが育てた」などと思いながらコンテンツにお金や時間や情熱を突っ込んでいく、等々は自分キラキラベースではない。個人主義と承認欲求の時代が猖獗をきわめていた時代にあってもなお、そうでないかたちで心をみたし、楽しみを享受していたのがオタクたちだった。
00年代後半~10年代にかけて、そのオタクたちが愛し、育てたジャンルやコンテンツは次第に市民権を獲得し、ユースカルチャーの片隅からユースカルチャーの真ん中へと移動していった。
オタク的なコンテンツだけでなく、オタク的な心性やライフスタイルまでもがマイノリティからマジョリティへと変わっていくなかで、「オタクが薄くなった」「オタクが出がらしになった」等々、色々なことが言われた。それらの指摘にも、納得できる部分はある。
でも私は、それだけでもなかったんじゃないか、とも思う。マジョリティから軽蔑されながらもオタクたちが大切に育んできた、「誰かを推したり愛したり、キャラクターやタレントに夢を仮託したりする」心性やライフスタイルは、案外ちゃんと伝播したのではないだろうか。
オタク的な心性やライフスタイル、特に自分自身をキラキラさせることを至上命題にせず、自分の好きなものにリソースを差し向ける心性やライフスタイルは、自分キラキラに疲れ果ててしまった社会において実は大切なことではなかっただろうか。
その大切なことが、オタクがマイノリティからマジョリティに変わっていくなかで伝播し、そのおかげもあって「推し」という行為と言説がこんなに広がったんじゃないかなーと私は考えたりする。
カジュアルに「推し」という言葉が広がっていくことには功罪あるだろうし、かつて「萌え」や「オタク」が通ったように、「推し」もまた言葉ごと消費され、やがて出がらしになっていくのだろう。
だとしても、自分キラキラが加速し尽くし、承認欲求ベースの欲求充足に傾き過ぎた社会に「推し」ブームが起こったことにはなんらかの必然性があるだろうし、「推し」が担っているニーズは鼻で笑うべきではないとも思う。
誰もが四六時中、自分キラキラを追求しなければならない社会は、ほとんどの人にはディストピアだ。
誰もが自分の夢を追いかけなければならないのも同様である「推し活」はそうではない。そうではないから、生粋のオタク以外にも刺さっているんじゃないだろうか。
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【プロフィール】
著者:熊代亨
精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。
通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イースト・プレス)など。
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twitter:@twit_shirokuma
ブログ:『シロクマの屑籠』
Photo:Hikosaemon
少し前のことだが、友人が経営する会社の幹部会議に参加した時のことだ。
「いつまで昔の意識を引きずってるんや!」
「環境に適応することを意識せんと、ホンマに生き残れへんぞ」
そんな言葉で、部課長たちを叱責する友人。
メモを取っている幹部も何人かいるが、明らかに納得感のある顔をしていない。
そのため会議後、友人から感想を聞かれた時にこんなことを答えた。
「そうやな…、率直に言ってスマン。あの内容では時間の無駄やと思った」
不機嫌そうな顔をする友人だが、構わず言葉を続ける。
「まあ聞けや、理由は2つや。抽象的な指示をしたところで人の行動は絶対に変わらんぞ。『環境に適応することを意識しろ』って、具体的に何しろっていうねん」
「……」
「それから、こっちのほうが問題なんやけど、お前本当に、環境に適応することが大事やと思ってるんか?」
「当たり前やろ、それはさすがにムチャクチャな意見やわ」
「ムチャクチャなのはお前や。『環境に適応しようとする意識』なんてもん、ぜんぜん必要ないわ」
激しく反論する友人。聞く耳を持つかどうか自信がなかったが、説明を始めた。
話は変わるが、太平洋戦争で日本が敗れた理由といえば、何を思い浮かべるだろうか。
今の若い人の答えは、正直想像がつかない。
昭和の頃に義務教育を受けたオッサン世代は、こんなふうに教えられた。
「軍部が暴走し、勝ち目のない戦争に無理やり突き進んだ」
「圧倒的な国力の差がある米国に、無謀にもケンカを売った」
正しい一面もあるかも知れないが、こんな説明が負け戦の全てを語っているとはとても思えない。
そもそも、誰がどう見ても勝てない相手にケンカを売るなど、人の本能としても理解できないだろう。
つまり当時の政治家や軍人には、僅かな可能性であっても“勝ち目のあるシナリオ”があったということだ。
そして実際、そのシナリオに沿って開戦から半年ほどの間、日本は米国相手に一方的に勝利を重ねる。
本論ではないので詳述を避けるが、当時日本軍が仕掛けようとしていたMO作戦(ポートモレスビー攻略戦)、FS作戦(フィジー、サモア攻略戦)が成功していれば、米国政府は日本と講和せざるを得ないと考えていた資料すら、見つかっているほどだ。
ではなぜ、戦争序盤にそこまで主導権を握った日本軍が、最終的に惨敗したのか。
その理由として、戦史の名著として知られる「失敗の本質 日本軍の組織論的研究 (中公文庫)」では要旨、以下のような理由を挙げる。
・組織が硬直化し、状況に対応する能力が著しく低かった
・作戦のシナリオが崩れた際の代替プランという発想が乏しかった
前者について、わかりやすい例は海軍の昇任ルールだろうか。
当時の日本海軍では、海軍兵学校卒業時の成績が一生、士官の出世に影響した。
たかだか20歳そこらの時の学校成績で、最高幹部になった時の補職すら決定される仕組みだ。
世にいうハンモックナンバー制度だが、卒業した年、学校成績の順番で誰がリーダーになるかを決定する、極めて非合理的な仕組みである。
そしてそんな制度が最悪の形で破綻したのが、ミッドウェー海戦だった。
この時、海戦の指揮を現場で執ったのは南雲忠一・中将であったが、南雲は水雷畑の出身である。
戦争の主力は航空機に移行していることを、日米両軍ともに十分に理解していたにもかかわらずだ。
なぜそんな人事がまかり通ったのか。航空畑は出世ポストではなく、成績の良い士官は砲術や水雷に配置されることが定番だったからである。
「卒業順と成績順で指揮官を決めるなら、やっぱり南雲だよね」
という、ちょっと信じがたいルールによる人事だ。
結果、日本はミッドウェー海戦で惨敗し戦争の主導権を失うと、以降は守勢に立たされることになる。
その一方で、米軍の人事はどのように決定されていたか。
米軍では一般に、昇任は少将までというルールで人事が運用されていた。
そして戦況や作戦の遂行状況に応じて、一時的に中将や大将を任命する。
その後、作戦が終了もしくは目的を達成すると再び少将に戻すという、目的から逆算して最適なリーダーを決定する人事が行われていたのである。
現代風に表現すれば、プロジェクトごとに専務や常務を任命し、プロジェクトが終われば平の取締役に戻すといったところだろうか。
どちらの組織がより機能的なのか、論を俟たないだろう。
もちろんミッドウェー海戦で、航空畑の将官が指揮官になっていれば結果は変わったはず、などというつもりはない。
加えて、ここまで組織運用で差をつけられていれば、仮に日米の国力が均衡していても日本は時間の問題で敗れていたことは明白だ。
だからこそ、「圧倒的な国力の差がある米国に、無謀にもケンカを売った」などという敗因分析は、事実を捉え損なっている。
日本は圧倒的な物量を前に敗れただけでなく、組織運用の知恵、誤ったリーダー人事など、あらゆる要因によって、国を失ったということである。
話は冒頭の、「環境に適応しようとする意識」についてだ。
反論する友人になぜ、「そんなもの必要ない」と説明したのか。
繰り返すが、「環境に適応することを意識しろ」などという指示は、全く意味を為さない。
そんな抽象的なことを言われて、人の意識や考え方がそう簡単に変わるはずなどないからだ。
「気合を入れて営業に行け!」と指示する昭和の営業部長となんら変わらず、何も言っていないに等しい。
加えて、そもそも人は損得で動くことを前提に組織運用を設計すべきで、良心や熱意で動くことを前提にしても機能するはずがない。
例えばアルバイトさんやパートさんのような「時間で仕事をしてくれている」人たちに、熱意を前提に仕事の指示をするなど、図々しいにも程があるだろう。
「環境に適応することを意識しろ」
というのであれば、
「環境に適応することを意識して仕事をすれば得をする仕組みを、経営者が用意しろ」
ということだ。
そして話は、米軍と日本軍の最高幹部人事についてだ。
日本軍では、たかだか20歳そこらの時の学校の成績でキャリアが決定的に決まる仕組みになっていたことは、先述のとおりだ。
言い換えれば、良い成績はキャリアの既得権益になって、合理性よりも優先するルールになっていたということである。
こんな組織で決定権をもったリーダーたちが、環境に適応することを意識するはずなど無いだろう。
ルールを変えて柔軟に組織を運営することはすなわち、自分の利益を失うこととイコールなのだから、当然である。
対して米軍の最高幹部人事は少将、いわば平取が通常の出世ルートでのてっぺんであった。
そしてプロジェクトや任務ごとに最高指揮官を任命し、成功すれば次があるが失敗すればキャリアを失う。
言い換えれば、環境に適応し、合理的に行動することに利益がある組織であった、ということである。
そんな話を友人に説明すると、最後にこんな事を言った。
「どんな仕事やプロジェクトでも役職者を固定して意思決定しているのに、環境に適応できるわけあらへんやろ」
「……」
「断言してもいいけど、部長も課長も絶対に合理的な判断なんかしてへんぞ。部下に舐められてムカつくとか、ダメ出しして仕事してるフリしようとか、そんな理由で意思決定してるからな」
「言ってることはわかったけど、プロジェクトごとに役職を上下させるなんて非現実的や」
「そこまで知らんわ。エッセンスが理解できるなら、自分の会社に合う形で取り入れたらええやんけ」
そして社員の「意識」に期待して説教をするなど、“部下にとって”時間の無駄であること。
機能する仕組みを作ることが、経営者の仕事であること。
それを放棄して精神論で指導をするなど、ただのパワハラであることなどを付け加えた。
私たちは、失敗から学ぶことの重要性について言葉の上では、誰だって理解している。
にもかかわらず、多くの人命と国を失った敗戦からすら学べていないことが、余りにも多いのではないのか。
「リーダーとはどういう存在か」というソフト面、「機能する組織の作り方」というハード面、どちらもである。
ぜひ、企業や組織でリーダーと呼ばれるポジションにある人には、考えてほしいと願っている。
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【プロフィール】
桃野泰徳
大学卒業後、大和證券に勤務。
中堅メーカーなどでCFOを歴任し独立。
主な著書
『なぜこんな人が上司なのか』(新潮新書)
『自衛隊の最高幹部はどのように選ばれるのか』(週刊東洋経済)など
ウチの近くのココスが潰れて、介護施設になってしまいました。
若い家族向けのファミレスが取り壊され、高齢者向け施設に建て替えられる現状に、肌感覚で危機感を覚えます。
X(旧Twitter):@momono_tinect
fecebook:桃野泰徳
運営ブログ:日本国自衛隊データベース
Photo by:Ankhesenamun
NHK連続テレビ小説「ブギウギ」が3月29日の放送で最終回を迎えた。
モデルとなった昭和の歌手・笠置シズ子を俳優の趣里が演じ、全体的に音楽をベースにした構成で、最後まで飽きることなく楽しめる作品になっていたと言っていいだろう。
少なくとも近年の朝ドラとしてはトップクラスにおもしろかった。個人的には、2011年の「カーネーション」に並ぶほどといってもいいくらいだった。1983年のおしんに次ぐ傑作とは言い過ぎかもしれないが、名作のひとつであることは間違いない。
「ブギウギ」が成功した要因はなんだろうか、と中盤くらいから考えていた。もちろん欠点もあったが、それも含めまとめてみようと思う。
私自身はテレビやドラマの関係者や専門家ではなく、単なる朝ドラファンのひとりに過ぎない。
しかし徹底的にイチ視聴者目線で、個人的な見解のみで取り組んでみたい。
朝ドラを構成する主な要因は4つ。
細かく分けると色々あるが、大きく分けるとこの4つだ。
まず「ブギウギ」について、この4つの視点から見ていく。
朝ドラにおいてもっとも重要な要素が主人公であることはいうまでもない。
結論から言うと、「ブギウギ」の主人公を演じた趣里に点数を付ければ、10点満点中8点。
幼少時代を演じた子役は9点でもいい。
「おしん」の田中裕子が10点という基準で付けると、趣里は8点、「カーネーション」の尾野真千子は9点。
尾野真千子に次ぐ点数は他に1988年「純ちゃんの応援歌」の山口智子くらいだろうから、かなりの高得点といっていい。
朝ドラの主人公は基本的な演技力などのほかに、キャラが重要であることが分かる。美人であるといったビジュアル的な要素よりも、愛嬌があって少し助けたくなるような雰囲気や笑顔が魅力的といったポイントがある。
完璧美人な女優ではかえって浮いてしまうのが朝ドラ。たとえば北川景子では現実離れしてリアリティーが半減してしまう。
そういう意味ではモデルの笠置シズ子に趣里を配役したのはハマり役だったといえる。マイナス2点の理由を言うと、ごく稀にだが関西弁に不自然さがあったこと、関西弁での演技に学芸会のようなわざとらしさが入ってしまった点。
とはいえ全体的にいえば視聴者を引っ張っていく力は充分にあった。特に歌唱シーンは素晴らしく、中盤での「大空の弟」「ラッパと娘」、後半にかけての「買い物ブギ」などはなんともいえない神がかった魅力があった。
朝ドラの主人公は時折この「神がかり」、言い換えると「神々しく」見える瞬間がある。
「おしん」の田中裕子は全編にわたって「神々しく」見えていたといってもいいほどで、「カーネーション」の尾野真千子も終盤へ向かうほど神々しくなっていった。
趣里の場合は地の演技ではなく歌唱シーンで神がかっていた。しかも華やかなステージより練習シーンのほうが神がかっているのがポイントだ。
子役に関しては、「ブギウギ」だけでなく近年は極めてレベルが高い。子役時代は期待感が上がるのに、大人に切り替わってテンションが落ちてしまうことが多いほどだ。
主人公と同じくらい重要なのがとりまくキャストで、特に家族や主要キャストがドラマを大きく左右することはいうまでもない。
実は近年の朝ドラでもっとも問題なのが主要キャストのキャスティングで、これによって失敗したケースも目立つ。
具体的に言うと、主人公の恋人や夫婦役に、安易なイケメン俳優などをキャスティングすることで雰囲気が壊されるのだ。
イケメンをキャスティングすれば一定の女性層が視聴するのは分からなくもないが、ドラマとして期待して視ているほうにすればがっかりしかなく、場合によっては見るのをやめてしまう。
「ブギウギ」の主要キャストは大きな欠点がなかった。10点中7点を付けられる。
家族では母親役の水川あさみや弟・六郎を演じた新人俳優・黒崎煌代も素晴らしかった。村山興業の黒田有も悪くないし、後輩役の伊原六花も良かった。
気になったのは新人マネージャーや梅丸歌劇団のメンバーの一部に不満があるが、ドラマ全体としては影響は少ない。ただし作曲家・羽鳥善一の草彅剛と村山愛助の水上恒司については言うほど高い評価とはいえないだろう。
とにかく近年の朝ドラとしては珍しいほど決定的な欠点がなかった。
たとえば2022年「舞いあがれ」では、主人公の福原遥は悪くなかったが同世代のキャストが全体的に悪く、さらに主要キャストの一部の関西弁がひどすぎてドラマ全体を破壊するほどの影響があった。
「ブギウギ」のストーリーは基本的にモデルの笠置シズ子の歌手人生と重なっていて、脚色も含め不自然さや退屈さは少なかった。
テーマはドラマ的に「義理と人情」となっているが言うほどその要素はなく、とにかく歌がテーマといっていい。
ストーリー・テーマには特段高評価なポイントがあるわけではないが、シンプルさが良い方に転がったという点では10点中7点を付けていい。
特に良かったのは前半。宝塚に落ちて梅丸歌劇団にも入れなくなりかけてからの盛り返しや香川での出生の秘密、弟・六郎の戦死あたりまでの展開は「ながら視聴」できなかった。
正直に言うと後半から愛助との恋愛、作曲家羽鳥との関係がメインになってからは少しも冗長さがなかったといえばウソになる。
ではどうすれば良かったのかというと、作曲家羽鳥との絆より、新人歌手水城アユミとの関係を展開した方が良かっただろう。笠置シズ子の史実には反するとしても、ドラマとしてはその方が可能性がある。
最終週も期待したほどの盛り上がりには欠け、もう少し「泣き」が欲しかったというのも正直なところだった。むしろまだ終わった雰囲気がなく、続くのではないかと思えるエンディングだった。
改めて「ブギウギ」のストーリー展開やテーマ性からいえることは、朝ドラは「エンターテインメント」であるということだ。
つまり中途半端に社会性をくっつけたテーマやストーリー、時代の流れに合わせてメッセージ性を・・・といったことをすると普遍性を失う恐れがある。
「おしん」でも、脚本家の意図である「反戦」のテーマがギリギリまで抑えられ、貧困と困難に立ち向かう芯の強い女性を田中裕子が演じきったことが傑作のポイントだった。
次回の「虎に翼」は日本初の女性弁護士が男性社会に立ち向かう・・・といったテーマと聞いているが、それだけ聞くと少々心配になってしまう。
毎日15分放送の朝ドラにとってテーマ音楽は意外と重要になる。
たとえば前作の「らんまん」ではむしろ歌を聴くために毎日テレビを付けていたと言っていい。
逆にドラマの内容は悪くないのに歌で台無しというパターンもある。
「ブギウギ」のテーマ音楽は10点中9点を付けていい。
個人的な好き嫌いも大きいだろうが、シンプルに、歌を聴くだけでテンションが上がる、といった基準でいいだろう。
テーマ音楽のほか、時代背景やセット、セリフ・言葉使いなどがあるが、「ブギウギ」ではどれも及第点だったといえる。
大阪制作で特に違和感が出やすい要素に言葉使い(方言)があるが、「方言指導」が機能していないのかと思える(前述の「舞いあがれ」など)こともあり、場合によっては俳優の出身によってキャストを考えるくらいにしたほうがいいケースもある。
「ブギウギ」の成功要素を分析してきたが、これも今後の朝ドラに期待してのことだ。
ネット上の記事では、今後の朝ドラについて「新しい挑戦をして、これまでに見たことのない朝ドラを自由に作って」といったトーンの意見が目立つ。
「新しい挑戦」「自由な朝ドラ」と言われて反対する人はいないだろう。
一見親切そうで好意的に見えるが、残念ながら一番無難で抽象的、底が浅く言いやすくて考え抜かれていない。現実的に深く考えていくと、むしろ逆になるからだ。誤解を恐れずに言えば、
これだけ聞いて賛成できる人が少ないことは百も承知している。
むしろ「つまらなくなるのでは」「制作陣が試行錯誤しながら挑戦してこそ」「楽して良いドラマができるか」といった声が聞こえそうだ。
しかし挑戦や自由は単なる励ましに近く、具体的な提案とはいえない。現実には挑戦も自由も限られている。
たいていの場合、現実に効果があるのは地味で機械的なものだ。
サッカーを見てやみくもに「もっと前へ攻めろ」「シュートを決めろ」と叫ぶだけでは勝てないのと同じだ。
まず効果的に攻める(と同時に守る)ための勝ちパターンを作り上げてこそアレンジとして挑戦と自由がある。
また、ひとつのポイントは「モデルなしの名もなき一般人」を主人公にできるかどうか。
過去のスターや偉人をモデルにするメリットは多いが、「おしん」超えは「名もなき一般人」での成功にかかっている。
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【著者プロフィール】
かのまお
ライター・作家。ライターとしては3年、歴史系や宗教、旅行系や建築などの記事を手がける。作家は別名義、新人賞受賞してから16年。芥川賞ノミネート歴あり。
Photo by:Nick Kenrick
「では、お互い娘たちの大学受験お疲れ様でした。カンパーイ!ねぇねぇ。ゆきは、最近の暮らしぶりはどう?近ごろはどんなこと考えてる?」
「う〜ん、暮らしぶりって言われてもなぁ…。とりあえず毎日、朝から晩まで起きてる間は仕事してるかな」
「えっ?ゆきって、そんなワーカホリックな人だっだっけ?」
「だって今、仕事はいくつも掛け持ちしてるし、やらなきゃいけない事がいっぱいあるんだもん。そうだなぁ。近ごろ考えてる事と言えば、税金と社会保険料の支払いのこととか、大学生になる子供への仕送りのこととか、後は、親の介護と看取り。それと、南海トラフで被災した場合にどうするかってことかなぁ」
「えぇ、何それ?つまんない!そんな現実的なことばっか考えて生きてるの?私たちせっかく子育てが一段落して、これからは自由なんだよ。もっとさぁ、夢を語ってよ、夢を。私はね、いつか仕事を辞めてリタイアしたら、周りに人が住んでいない田舎の一軒家に移住して、ジャムとか作って生きていきたいの。ターシャ・テューダーみたいに」
周りに人が住んでない田舎なんて、色んな意味で恐ろしい。
生活に不便なのはもちろん、防犯上もオススメできない。集落に人が少なければ少ないほど、人間関係も密になって息苦しくなる。
だいたい料理が好きなわけでもないのに、何でジャム作りが夢なのよ?なんて言ったら、気を悪くされそうだ。わざわざ現実を突きつけるような事を言わなくても、どうせ本気じゃないだろう。ここは笑ってスルーしておこう。
「そんなこと言ったって、私は今、仕事でも私生活でも、日々現実的な問題にぶち当たってんだよ。目の前の問題に現実的な落とし所を考えて、現実的に対処して、現実的に解決する作業の繰り返し。だから現実しか見えてないの」
「やだぁ。人生なんてどうせしんどいことばっかりなんだから、せめてキラキラした夢を見ていようよ〜」
「だって、嫌でも現実が迫ってくるんだもん。今まさに、『住んでいる地域が老いていく』という現実がね。住んでいる町も働いている街も、少子高齢化と人口減で問題が溢れ出してんの。真由美は東京に住んでいるから、ヤバさが分からないんだよ。東京って久しぶりに来たけど、人がいっぱいだね。子供の数は少なくても、世界中から若者が集まってる。こんなところに住んでいたら、いくら日本は少子高齢化だ人口減だって言われても、ピンとこないでしょ?」
「ま、人が多いと言っても、東京は外国人ばっかだけどね」
「都会では外国人が働いてくれるから、飲食店にも十分な数のスタッフが揃ってて、こうして人間がオーダーを取ってくれるんだね」
「そんなことない。チェーン店ではタブレットが普通になったよ」
「私が住んでる地域の飲食店では、チェーン店どころか個人経営の小さなお店でも水はセルフだし、オーダーや決済はタブレットやスマホでするお店が増えてきてるよ。働く人が居ないから。飲食店はどこも、近ごろは求人に応募が全然ないって、人手不足を嘆いてる。
もうね、地方では子供がいないとか若者がいないとか言うフェーズは過ぎてんの。高齢者をふくめて、地域全体から人が居なくなってきてるんだって。
今の高齢者って、うちらの親世代じゃん。その人たちが、地方では消費者のボリュームゾーンなわけ。つまり、これからの10年で、地方では労働者どころか消費者もゴンゴン消えていくってことなんだよ」
それがどういう事態をもたらしているのか、こうして東京に来てみて分かった。
少し前まで不自由を感じていなかった地方での暮らしは、これから一気に不便になろうとしているのだ。
実は物やサービスの値段も、都会に比べて割高になりつつある。
「ねぇ、真由美。こんなにオシャレで美味しい料理が一皿1,000円以下って、びっくりなんだけど。うちの地元でこのレベルの店へ食事に行ったら、間違いなく1.5倍は取られるね。東京は人が多いから、テーブルの回転数が違うのかな?だから客単価を抑えてもやっていけるんだと思う?」
私は首をひねりながら、カラフルな温野菜と旬のホタルイカにムース状のソースがかけられた、ケーキにしか見えないサラダを箸でつついた。
「東京の方が安いと感じるのは、飲食店だけじゃない。昨日ね、ホテル近くの成城石井へ買い物に行ったら、売ってるものが安くて驚いちゃった。寿司パックとか、うちの地元のスーパーよりも豪華なのに安いんだもん。成城石井は高級スーパーで値段が高いってイメージだったのに、今じゃうちの近所のスーパーの方がよっぽど高いみたい」
「へぇ〜、そうなんだ。そうねぇ、色んなコストが乗っかってきてるんじゃないのかな?
近ごろ物流コストの値上がりがエグいって聞くし。配送に時間がかかって、商圏に住民が少なくて、商品が回転しにくい地方のスーパーほど、これからはどんどん物の値段が上がっていくのかもね」
地方に移住すれば生活コストが下がると一般的に言われてきたが、その認識はもはや実態とズレつつあるようだ。
もちろん、地産地消コーナーの野菜などは安くて美味しいのだけれど、それもいつまで今の状態を維持できるのかは疑問である。スーパーに野菜を卸している地元の農家さんたちは、高齢者ばかりで後継者が居ないのだから。
地方では都市部と言われるエリアでも空き家が目立つようになったが、郊外では耕作放棄地が目につくようになっている。新鮮で美味しくて、しかも低価格の地元の野菜たちは、いつまでスーパーの棚に並んでくれるのだろう。
「最近ね、能登半島地震のニュースを見てたら身につまされちゃって。高齢化率が50%を超える地域が被災すると、復旧も復興も進まないのね。そもそも、国にそうした被災地を本気で復興させる意思がなさそう。
そりゃそうだよね。だって、地震が来なくても後10年〜20年もしたら消滅してた過疎地にお金をかけて、どうすんだ?って話じゃん。もう日本には大盤振る舞いができるような国力がないんだから。
だから、もし南海トラフが来たら、私の地元は確実に放置されそう。その時、私はどうしようかな」
「引っ越しちゃえばいいじゃない」
「そうなんだけど、いざその時が来てみないと、自分のエモーションがどっちに振り切れるか分かんないだよね」
まず生き残れるのかどうかが定かではないが、仮に無事だったとして、その後に自分はどうするだろう。
地元が瓦礫の山と化した光景を目の当たりにし、「ここはもうダメだ」とすっかり諦めてしまうのか。それとも猛烈な愛郷心が湧いてきて、復興に尽くそうとするのだろうか。
合理的に考えれば、日本国内だろうと海外だろうとさっさと新天地に転居して、生活の再建を図るのがいいに決まっている。
どのみち、いつかは高齢化と人口減で、生活が不便になっていく一方の土地なのだ。
地域の再建を図るより、住民を移動させる方が国もコストがかからないのだから、世論もそちらを後押しするだろう。
とはいえ、いざ自分が当事者になれば、そう簡単に割り切れる気がしない。
だいたい私は、必ずしも合理的な判断にもとづいて行動する人間ではないのだ。
知人に騙され、ハメられて、問題だらけで破産しかけていた商店街組合の事務局を引き継いだ際も、家族は「早く辞めろ」とうるさかった。周りからも「どうして今すぐ逃げないの?」と不思議がられた。
それなのに、「こんな腐れ商店街はとっとと滅びろ!バルス!」と悪態をつきながら、結局とどまって問題解決に努めてしまったのだ。
気付いたら、山積みだった問題は8割がた片付いているし、今後に向けた道筋も見えてきた。何故そこまでしてしまったのか、我ながら動機が分からない。
だから、もしかすると合理的に考えてクールな決断を下すより、逡巡しながらも踏みとどまってしまうことは十分にあり得る。だがしかし...。
「ねぇ、真由美。私らって、人数が多い最後の世代じゃん?」
「そうだね」
「阪神淡路大震災の時、私たちは20歳で若かった。つまり、日本は若い国だった。
東日本大震災の時は、30代半ばだったよね。まだ私たちが社会の中核を担えていて、国も豊かだった。
これから大震災が来て、その時にギリ40代なら、どうにか気力も残ってて、体も動くと思う。だけど、50代や60代になっていたら、自信がない。復興に尽くすには歳をとり過ぎている。なのに、私たちよりも下の世代は存在してないんだよ」
「もう日本は滅ぶね」
住んでいる地域の老いは、自分たち世代の老いと連動している。
大震災なんて来てほしくないが、しかし来るなら来るで早くしてもらわないと、手遅れになりそうだ。
「はぁ。もう現実とか未来のこと考えると暗くなっちゃうから、やめようよ。
都会は都会で、これからどんどんAIに仕事を奪われそうだってのに。
やっぱさ、ゆきも韓流ドラマとか観た方がいいよ。美男美女を見て癒されよう。私はもう、フィクションと夢だけを見て生きてたいわ」
そう言いながら、実はバリキャリの真由美も日々現実と向き合い、戦っていることを知っている。
現実から目を逸らせない私たちは、束の間うさを晴らすために、3杯目のワインを注文した。
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【著者プロフィール】
マダムユキ
最高月間PV40万のブログ「Flat 9 〜マダムユキの部屋」管理人。
Twitter:@flat9_yuki
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